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23年度活動の記録


第1回 9月 郷土史(古代)
第2回 10月 郷土史(古代〜中世)
第3回 11月 郷土史(中世〜近世)
第4回 12月 郷土史(江戸時代)
第5回 1月 郷土史(近世〜近代)
第6回 2月 地名の由来(福良の町名)

<※各項目をクリックすると、資料に飛びます。>







瀬戸の潮みず交流広場 (福良地区県民交流広場)
福良公民館 〒656-0501 南あわじ市福良甲512-2
TEL:0799-50-3048  FAX:0799-50-3068























第1回 郷土史(古代)

   徳田 壽春

始めに、
  淡路島の南面の福良は、天然の良港で、加えて気候温暖で水産物に恵まれた土地柄であり、 古くから人が住みついて何ら損傷のない地である。 私たちの祖先は、何処から、どうして、福良にやってきたのか、その人々の営みを探るのも大いに興味関心のあるところである。


(1) これを知る手掛かりとしては、次の資料を参考にするのが基本的なところである。 

考古学的な資料「埋蔵物、遺跡」
記述されている資料「古事記、日本書紀、風土記」
墓墳群跡


(2) 縄文時代は、前期、中期、後期に分けられるが、長い期間であることが青森県の三内丸山遺跡により実証されている。 約8,000年の過去にさかのぼる。  
  
弥生時代には、農耕生産が飛躍し、鉄の使用も始まる。 原始国家群の形成をみることができる。

古墳時代には、支配被支配の関係が明確になる。 西都原、大和の古墳群の大小によって明らかである。



福良の原始時代

 縄文、弥生、古墳の各時代を明確にする資料は乏しい。 戎町、備前町あたりの海岸に出土した土器破片が縄文後期から弥生初期のものでないかと推定されれば、約二千年以上前に福良のこの周辺に人が住んでいたことになる。

 その他、原田川流域、納屋町山の上、原田、仁番(にお)、東谷、刈藻等に石器の破片サヌカイトが出土。 八幡境内、鷺ノ森は古墳と言われ、その他、西の荒神、東の荒神なども古墳ではないかと言われている。 

伊毘の沖ノ島、阿万、沼島、シダマルの福良周辺の古墳群から推してこれらに関連する海人族が福良に暮らしていたと思われる。

  


淡路の海人族

 野島(ぬじま)の海人族、三原の海人の記録が日本書紀、古事記に見られる。 海人族は中国の長江下流域の江南地方、東南アジア、ポリネシア、ミクロネシア、メラネシアから渡来してきたことが、明確な資料で判明している。  
 国生み神話や塩作り神話の数々、神武天皇の東征等の根源は、東南アジアに求められる。

 北九州に本拠を持つ海人族の安曇氏、宗像氏の両勢力は大きく東方に勢力を拡大していくなかで、「東征譚」が語られ、大和政権が構築されていったことを物語っている。 淡路の海人族も、この両海人族の勢力範囲に含まれ、東方に勢力移動に連れて、淡路島にやってきたと思われる。 これに関しては、宮崎県、日向の豪族、ひいては九州一円(隼人属等含む。)の海人族が含まれる。

 大和政権の成立は、九州の一大勢力との関わりがあったことを古事記では述べている。(神武東征)
安曇氏は戎神社を、宗像氏は宗像神社を奉っていた。 福良では縄文後期より弥生時代にかけ、海人族が今の備前町、戎町、仲之町、納屋町、刈藻辺りに居住していた。 彼等は、支配、被支配の関係の薄い社会で農耕、漁労、狩猟で自給自足の営みをしていたと思われる。

谷合や山麓、原田川流域の南に面した丘陵地
向谷にも古墳が認められる。

 向谷には、淡路でも古さにおいては一二の居神神社があり、それと関連する櫟神社が東谷にある。 
祭神は丹生津媛(にうつひめ)とされている。

約九百年前、居神に大津波があり、人家が約80軒も流されたという。
海人族は海をよく知る特技があり、塩作り、海運輸送、漁労に従事していた。
大和政権との関わりが大となって、食糧供給や海運にも携わっていた。

応仁天皇が淡路で遊猟された際の建物の一部とも言われる柱が、旧福良小学校敷地造成工事中に発見され、柱の根が規則正しいままに掘り出される。   

朝鮮半島との関係では、神功皇后、天の日槍、新羅人の渡来などに、福良のかこ(水夫)の海人族が活躍していたと考えられる。

 今に残る字名である白木「新羅」、小松谷「高麗津谷」は、朝鮮の地名に由来している。



「福良」の地名の由来については、

(1) 淡路真人福良麿と言う名の人が、中央から派遣されてきたからとの説
(2) 風が吹く浦、即ち『福良』との説
(3) 地形から、入り口は小さく、後ろに開けた土地を福良とする説
(4) 元明天皇の御代、和同6年(713)5月2日、風土記撰進に「郡郷の地名は二字にして佳字を付けよ」との勅令があり、この頃より文字が正しく使用され、福良と名付けられたとの説もある。

 5世紀以前は文字のない時代であり、言葉はあったが、全て伝承と記憶力の鍛錬により、口から口へ、そして暗唱したのである。 稗田阿礼の古事記や日本書紀は、いずれも官撰の記録であることに注意する必要がある。

 中国の史書である宋書には、讃(仁徳,履中)、珍(反正)、済(允恭)、興(安康康)、武(雄略 )の五人を倭王として認めることが記載されている。





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第2回 郷土史(古代 〜 中世)

徳田 壽春

 淡路の海人は、大和政権に対して、海人としての技能を提供し、人的にも貢献した。 航海の技術により朝鮮半島と関わる中、鉄製品を輸入し、製鉄技術を導入するなど、新しい文化を取り入れた。 魏志倭人伝には邪馬台国を中心とした小国の乱立が記載され、村より国へ、更に、より大きな国へと移行していった。 弥生期の末には、小地域の王より大王へ、大王より天皇へと、急速な変遷が進んだ。 

 『銅鐸より、鏡へ』祈りから権威へと変遷し、加えて武力の時代へと変化していく。 そして中央政権が成立していった。 淡路の海人は、その成立過程で、中央政権に、食糧、かこ、船の漕ぎ手、船、水などを提供し、協力していった。 『大王』の居所を京の定まりとして、その周辺の【畿】の整備、大和政権の及ぶ範囲を拡大していく中、淡路はいち早くその政権下に隷属して、天皇がたびたび来島する御食国(屯倉が一例)としても重要な場となる。 

 氏姓の政治から、中央政権への傾向を推し進める政策が強まる。 538年、百済の使者が欽明天皇に仏像などを献上し、仏教が伝来した。 蘇我馬子は、仏教信奉を広めるのに対し、反対勢力の物部氏は、古来から神の国では異神は不用として、両氏の対立が深まる。 大化の改新(645)、朝廷最大の権力闘争の壬申の乱(671)は、おじ・おいの関係で争いの凄まじさを物語る。

 律令制は隋、唐の人民の支配と国の財政の基盤作りの制度を取り入れたものである。 公地公民、班田収授、口分田などの制度は、国司・郡司を通じて、下部へと広めていった。 貢物から税へと変わる。 しかし、現在の税とは大きく異なり、農民への見返りは何も無い。

 氏姓→国造→国司へと国政の制度は変わり、国司には、国の出先・権力の支所という大きな役割が与えられる。 そして、国の威信の伝達と官道の整備については、大化の改新から大宝律令制定(7世紀、8世紀)にかけて、軍用道、緊急連絡、海外使節、役人の公務移動、公文書移送、税の運搬、地方情報収集、最重要社会資本の整備を一層進展していった。

 上記の事項を実施し国力を増大するために、官道を整備する必要に迫られ、中央政権より九州の太宰府へ通じる山陽、山陰、北陸、東海、東山、南海、西海の七道が整備された。 淡路は南海道の通過点で、紀州の加太より、由良→大野→神本(みわもと)→福良の馬宿へと至る。 これらの宿駅のおかれた地域が潤うようになったが、その維持のため、地方は大きな負担を強いられた。 最重要道の大道は、幅員15m(平均10m)、そして平均16kmの駅間があった。 山陽道には20頭、東海・東山には10頭、淡路南海道には5頭の駅馬を置くと規定されていた。 駅の運営には地域があたり、そのためには駅田をあてがわれ、その収穣【駅起稲】で賄うことになっていた。 駅戸・駅子などがその雑務や駅舎の労働に従事することとし、道はできる限り直線のコースであることも規定された。

 南海道の淡路の各駅の所在地は明らかではない。 特に、福良に地名として残る「馬宿」に駅舎、駅宿、まわりに駅戸はどのように配していたのだろうか、大きな謎である。 大野から福良へ直線的に通ずる道は、現在の赤坂、警部派出所、潟上の少し上手あたり或いは藤井戸か、いずれにしても渡海船をどこから出したかが大きな課題である。

       

  福良に関係する歴史年表

416 允恭

大和、河内、飛鳥付近地震、書紀に記載された初めての地震
福良の居神に津波の被害があったのではないか。

646 大化 福良〜撫養への渡船 通船 福良に馬宿に駅鈴、と船宿を置く
701 大宝

十一カ所に惣社十一大明神を建立
榎列二宮 大和大国魂神社

715 霊亀

律令制により、倭文、幡多、養宜、榎列、神稲、賀集、阿万の七郷を構成

※この七郷に福良という地名がないことが、福良にはどう取っていいのか。
  郷としての構成が整っていなかった。 

                                
 厳しい律令制は、重税(調、傭、租)軍役等によって農民には大きな負担となる。 ひいては中央政権の財源を潤すとした政策が、中央集権を損なう源となる。 人口に比して、口分田に配する田畑が不足し、墾田法の三年から永年墾田法へ変わることとなる。 

 農民の苦しみとその悲惨な状況を詠んだ歌がある。 柿本朝臣人麻呂が 香具山に屍を見、悲働〈悲しみ手〉作る歌一首 

 「草枕 旅の宿りに 誰が夫か 国わすれたる 家待たまくに」 

 これは地方から、都に何らかの形で召し出された民のなれのはてを憐れんで作られた歌である。
律令制の崩壊が始まりだす。地方農民の窮状にそれがみられる。
生活が成り立たない弱者〈農民〉は強い者へと、(豪族 国司 神社仏閣)身を委ねる。
荘園が生まれる。そして力のあるものが荘園を大きくしていく。 荘園を広げ、また守る必要ができてくる。 武力を養う必要がある。 荘園に付属したなかで、武力を専門にしながら時には田畑を耕すという武士が誕生する。 

 律令制の崩壊に際して、中央政権は力を喪失していく中で、有力貴族は荘園を増大する。 また、班田収授の制度が完全に崩壊し、強い者がより強くなる。





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第3回 郷土史(中世 〜 近世)

徳田 壽春

 律令制は、隋、唐の支配体制を採りいれた制度で、公地公民は班田収授、口分田、調、傭、租、徭等の決まりと厳しい罰則で、体制と政権を維持し、国家を発展させる計画であったが、班田収授が計画どおりにいかず、土地(田地)が足りなくなり、墾田法が永年墾田法となり、各地に豪族や貴族、社寺に田地が集結するようになった。

 その田地を守り、あわよくば他の地も奪うような形成も起こり、強い者がますます強くなり、弱い者は強い者の配下となって保護を求めるようになってきた。 そこに、新しい体制の芽生える荘園と武士団の発生である。

 それまでの淡路の律令制は津名、三原の二郡に分けられ、さらに郷,里に分けられ、福良はその区画の郷には入っていない。 郷は、約三里以上が集結して一郷と認めたので、福良には当時の人口としては約七百五十人に満たなかったものと推定できる。 一里は約五十戸あり、一戸の人口は約五人として、一里には約二百五十人が住居していた単純計算となる。

 中央からは、大王の公認する氏姓が今までの地方の豪族である国造が支配し、治めていた地域に、国司、郡司が派遣され、その庁舎が置かれた。 郡家、国衙など今に地名として残るところも淡路にはあり、役人の役名に大臣という役名が今に残っている。 その他、臣、連、直、首人などの順に官位が定められた。 因みに、鎌倉時代の幕府に提出した(1223)淡路大田文によると、農耕に鉄器を用い、牛を使用しこれまでと異なる農耕の発展をみた時代に、福良荘は田二十町、畠不明、浦一とあり人口は不明とある。


武士の源流と拡充進展

 武士は戦いを専門とする反面、荘園の農耕にも従事して、地方毎に武士団を結成、体制を保持していった。 これが地方武士で勢力を伸ばして豪族となっていく。 その豪族の中に貴種武士と言われる天皇の血を引く武士があった。 桓武天皇の流れと、清和天皇の流れの武士たちである。 平城京から平安京へ都を移した桓武天皇には35人の子供があり、うちの一人が次期天皇を継いでも他の子供たちをどうするかでは姓を与えて、地方へ送ったのが平の姓を持った平家武士である。 平は、平安京の平から取ったと言われ、第56代清和天皇は19人の子供があり、貞純天皇がその後を継ぎ、その他は皇室より離れて地方の武士となっていった。 姓は姓の源、言うなれば姓の根源との意味で与えられた姓で源氏の武士の始まりである。 やがて日本全国の武士はこのいずれかの武士の棟梁の配下に属するようになっていった。

 元を朝廷に発する源平両氏は、争いもなかったが、朝廷に重く用いられるため勢力を争い、武を誇る勇ましさを競うようになっていく。 後白河法皇時代に競い合いが頂点となる。 法皇はどちらも強くなるのを恐れて、陰で源平の両氏を操る行為がなされ、互いに力を伸ばさないように、時には武力を互いに競わせて、極力勢力削減策を取った。 しかし、これとは逆に、互いに源氏、平氏の結束を強め、河内源氏、多田源氏などは地方で強力な勢力を持った。 平氏は、伊勢地方で武士集団の勢力を拡大し、平家武士の本拠を持つようになった。 地方の在地武士団の豪族は、その配下となり、庇護を受け、生き延びる体制が確立していくようになった。

 鶴島での源平の争いは、平家物語では「六ヶ度軍」で、激戦は福良の赤坂で勝敗を決したと言われる。 それまでは、鶴島城主も平家全盛時代に平教盛に仕えていた。 また、平教経に源義嗣の子百太郎が仕えていた。 
 いずれもこの時代は、平家全盛の時代で、淡路国司に教盛、宗盛、清房(清盛の八男、一ノ谷で討死)、平重盛も鞆の浦より福良の鶴島城に立ち寄り、その接待ぶりを褒め、土地(樹林)を下賜している。
 鶴島城の平家への謀反は、教経、通盛にとっては思いもよらぬことで激怒し、みな殺しに出た攻撃は激しかったと思われる。

 寿永元年(1181)源氏の平氏打倒の旗揚げは、河内源氏の新宮十郎行家の朝廷の宣旨を全国の源氏に伝えたことに始まった。 都を追われた平家は、福原の都を取り戻そうと総力を挙げ、須磨まで攻めのぼり、強力な陣を構築するが、一ノ谷に敗れ、平家一門は諸将を失う。

 四国屋島で再度の決戦を挑むべく、その途中、福良湾に平家軍船が2月7日より13日まで船がかりし、味方軍船の集結を図った。 第81代安徳天皇の行在所を福良湾内に置く。(王園か洲崎か竹島か) 敦盛の父、教盛が福良湾に軍船を係留、父子の対面をし、泣く泣く敦盛の首を荼毘に付す。 煙島の名はこれに由来する。

 煙島には青葉の笛の伝説も伝わる。 栄華を極めた平家一門も屋島、壇ノ浦の戦いで潰え去る。

 頼朝は、鎌倉に幕府を開き、征夷大将軍として武士政権を確立する。
幕府より任命された国司が、淡路に着任する。 その間、頼朝の従兄弟にあたる義邦が、頼朝より福良姓を賜り、鶴島城主となる。 代々は、義継、義信、義影、吉倉、吉家、融通、保倉、保基、太良、政貴、政安、政幸、義基、吉蓮、吉高(後、福良家は阿波の勝浦へ移住、1449年)



鶴島城 

 休暇村南淡路は、城の跡地である。 平安後期の砦であり、見張り台である。 城主の居館は、砦の近くにあり、いざという時、砦の中で指揮をした。

 砦は見晴らしの良い福良湾入口にあり、見張り台としても、自然を利用し、守るにも峻険な地の利を得ている。 城主は河内系源氏の祖、源頼信を持つ頼賢の子、源義久と頼仲の子の源義嗣であり、従兄弟同士である。

 四国淡路の平氏の福原出陣の隙をみて、淡路の源氏は平氏に謀反する。
平教経は、昨日まで我が馬の馬草刈りをしていた者の謀反に激怒し、平通盛とともに鶴烏城に逃げ込んだ源氏勢を攻めた。 その激しさは、能登守教経の『射切岩』の伝説を残す。 義嗣は戦死し、義久も深傷を負い自刃、残った軍兵約130人の首をはねる。 義久の子の義邦は、夜陰に紛れて、熊野の伯父新宮十郎源行家の元へ逃れる。


 鎌倉幕府は、頼朝、頼家、実朝の三代で終わり、執権となった北条氏に代わる。 やがて北条氏も足利、新田、楠木氏等の反鎌倉に同調する軍勢を得た朝廷側が北条政権を打倒する。 武士政権を倒すべく旗揚げをした後醍醐天皇は足利尊氏と反目し、南北朝の戦が続く時代となる。

 各地の在地武士、豪族は南北いずれかに加担する武士もあり、淡路でも南朝に属する武士団もあったが、鶴島城主の福良氏は南朝には加担しなかったようである。 やがて、楠木正成の案を入れなかった南朝方は敗北し、足利尊氏が開いた室町幕府が全国の武士団を支配する体制を構築していく。

 幕府は、淡路の仕置きを北朝方の細川師氏、頼春に命じ、其の軍勢が大挙、福良に押し寄せてくる。 しかし、福良湾では軍馬を降ろすこと事が出来ず、鳴門岬の笹山において軍馬を降ろした。 このあたりを「馬降ろし」「筏おろし」という地名が伝説に残っている。 軍勢は福良の山越えで、賀集八幡の中村山麓の城の丸に陣をおいた。このとき鶴烏城主の福良勘解由左衛門吉倉は、北朝方の細川師氏に従って軍を挙げる。


 立川瀬の戦い
(歴応3年 1340)

 淡路では、細川師氏を迎えて、地侍と国衙を守備した衛士が所領を広げて在地武士となった阿万、志知、沼島の武士と組んだ宇原兵衛永真入道が細川軍と戦ったが、敗北する。 北朝方の細川初代は淡路の守護となり、戦いは賀集護国寺の加護のあったことに対して、宇原兵衛の所領三十町歩、灯田二十町歩,僧坊料、楽料,斉料、太刀等を護国寺に寄進した。 細川氏は淡路守護となり、七代養宜館を城館として淡路を支配下に置くが、未だ、南朝方の勢力をまとめて戦いを細川氏に挑む南朝軍が存在していた。 その最後の戦いが、次の円鏡寺原の合戦である。


 円鏡寺原の合戦
(文和2年1352)

 この戦いによって、淡路の南朝軍は敗北し、細川氏は淡路の守護として七代続いたが、全国に広まった下克上で、仕えていた四国の三好氏が主人の細川氏を倒し、軍勢は淡路守護職の細川氏をも倒して勢力を島外へも伸ばしていった。


 戦国時代

 淡路に勢力を得た三好氏と紀州熊野の安宅荘の安宅氏は、瀬戸内水軍(海賊)討伐と称して、淡路の浦々に軍勢をとどめ、城を築いていた。 このように三好、安宅は淡路を支配して、淡路の安宅十人衆として淡路の重要地点に城を構えていた。 このとき福良勢は、三好の軍を福良湾内においての作戦に協力したくらいで、戦国期の初期も大きな戦禍に遭うことがなかった。

 全国に天下布武を目指す織田信長の後、羽柴秀吉が天下をねらい、四国を攻略するにあたり、淡路の武士討伐のために軍勢を差し向けてきた。 いわゆる「淡路攻め」である。 三好・安宅は組織だった連結もなく、秀吉の軍には三野畑(鮎原)の白巣城のみが抵抗するが、落城する。 これより秀吉の配下の諸将が淡路に派遣された。 洲本城には藤堂、仙石、脇坂等の諸将が入り、志知城、岩屋城には加藤、池田の諸将が入る。


 徳川政権と徳川幕府時代の淡路

 徳川家康は関ケ原の戦いで勝利を収め、大阪城の冬、夏の陣で、豊臣氏を倒した後は、戦いの功績によって国替えを行い、淡路は徳島を本藩として蜂須賀氏のものとなり、家老の稲田氏が支配することになった。 家康は、戦功により稲田氏を一大名にする考えであったが、稲田氏はあえて、蜂須賀とのこれまでの関係から分かれることを望まなかった。 これが後に、大きな禍根を残すとは蜂須賀・稲田の当主は想像だにしなかったことであろう。

 淡路は蜂須賀藩の治める本藩武士と稲田の武士の支配下となるが、福良にいた福良氏はどうなっていったのか。 福良氏は阿波、紀州へ移住したが、その地でどうなったかは不明である。

 加藤氏が志知城主の時に家老職を務めた桐原氏は、福良の岡ノ原に岡之城を構えた土師左近典忠之の末裔で、武士を離れたのち、十一屋という屋号の商人となった。

 四国征伐の際に、豊臣秀長は堺より洲本に上陸し、秀次と合流。 福良湾に大軍が駐留し、福良を差配した。 その時、桐原刑部、西村伝兵衛、山田与一右衛門らは船の調達に努めた。 岡之城の城主は、福良式部寛治の子息の森崎中豊(桐原刑部)であったとも言われる。

 天正13年(1585)のこの頃は、福良の軒数は二百軒ぐらいであったと推定される。 
 人口は、千人を少し上回るぐらいと思われる。

 天正14年(1586)11月29日、天正大地震で蛇の鰭と洲崎の砂州が切れ、洲崎が島となる。

 天正19年(1591)岡之城々主森崎中豊の長子、森崎四郎衛門英貞(後の十一屋伝衛門)
 道元和尚が福良智光山遍照院を開山。(後に遍照院は報身寺と改称)

 文禄元年(1592)森崎英貞は、主君加藤嘉明らに従い、750人の軍勢と共に文禄の役で朝鮮に出陣。 
 加藤嘉明は、朝鮮の戦功により伊予松山城に転封。

 加藤氏の転封を機に、岡之城を廃城。 桐原刑部中豊は加藤家を辞職し、福良浦長になる。
福良浦の平瀬十左衛門(平瀬家の遠祖)は朝鮮の戦いに供奉したが、その時に持ち帰った朝鮮仏は霊験あらたかで、火事をくいとめ、これを安置した家は消失を免れたという伝説が残る。

 文禄4年(1596)讃岐の岡田真之介を施主として、重恩寺が開山。
 この頃坂東半左衛門宗喜が阿波脇町より移住し、主家の支配地を管理する。

 元和元年(1615)蜂須賀家の淡路支配
 淡路の領主であった池田忠雄は転封され、備前岡山315,200石を継ぐ。
蜂須賀二代至鎮は、大阪冬の陣の功により淡路七万石を加増される。 稲田植元には淡路四千石が加増される。 その陣に福良の桐原伝右衛門、萩原某などが、洲本城代の稲田修理之亮植元に従い、大阪夏の陣に出役する。 平瀬家の祖、平瀬善左衛門は蜂須賀至鎮に従い、夏の陣に出陣する。

 福良八幡は慶長年間以前は小さな社であり、古墳跡であった。 そこに拝殿を立て、宇佐八幡宮の勧請を得て、元和2年(1616)本社を建てた。 棟札には頭領主西村傅兵衛、同與市と書かれていた。 札袋には福良山とあり、鶴島の城主が福良姓を名乗り、その関係からこの宮山を福良山と号した。
建築様式は桃山期の遺構がみられる。 特に、屋根の勾配と蛙又と言われる所に遺構がある。 在家住路甚助、大工喜田喜衛門と記される。 

 蜂須賀家の家臣平瀬善左衛門、十左衛門と名を改め、商人25人を率いて阿波清之津より福良に移住する。 出自は、泉州上太子村であったので太子屋の屋号が使用された。

 寛永2年(1625年)真光寺本堂完成
 この本堂完成は再建とある。 真宗本願寺派で本尊は阿弥陀仏、過去帳には常寺の初祖は順祖とあり、年代は不明。 後七代は無住とあるので、すこぶる古い寺と想像される。
寛永2年の淡路棟付検地「蓬庵検地」では、70,186石5斗と定められた。

慈眼寺
 後陽成天皇の第五皇子嵯峨宮二品尊性法親王(毎敦親王)が鳴門観潮の際、龍海坊を訪ね、山号を下賜する。 それまでは観音院龍海坊であったが、福聚山慈眼寺と改名する。

報身寺

 浄土宗知恩院末。 文禄元年(1592)開山傅誉とあるが、これが戒名の裏にあることから、それ以前にこの寺が存在されていたと思われる。






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第4回 郷土史(江戸時代)

徳田 壽春

 福良は古代より地理的にも重要な地域であり、大和政権の構築に多大なる協力と貢献を果たしてきた。 淡路海人族の活躍は、御食国、屯倉などによっても大和朝廷との関わりが分かる。 
         
 その後の律令制による中央政権の支配、国司、衛司の派遣、による国政も律令制の班田収授の行き詰まりの結果、永年墾田法が広まる中で、強い者や武力による私有地が増えていく。 いわゆる武士の起こりである。

 結果は、源平の武士の勢力争いとなり、やがて両雄も潰え去り、北条、足利、後の下剋上の時代となり、日本全国に戦乱の災禍を広げていった。  

 戦国の終末は、織田信長によってほぼ達成したかにみえたが、本能寺において日本統一は羽柴秀吉に託された。 秀吉は、配下の諸将を戦功によって各地に所領を与え、淡路は脇坂安治、加藤嘉明の治める地域となった。 朝鮮の役には、福良、志知の水夫がこの戦に動員され、福良の森崎、桐原氏らの士族も淡路の領主に供奉した。 徳島藩の家臣、平瀬氏も参戦した。 秀吉の軍は、最後に朝鮮の水軍の将が率いる亀甲船によって手酷い痛手を受け、戦いは秀吉の死によって終わった。

 秀吉の死後は、大阪の冬、夏の陣によって豊臣家は滅亡する。 淡路の城代家老稲田氏と本藩の蜂須賀氏は徳川方で武功を立てる。


徳川家康が全国制覇、将軍となり江戸幕府を開府

 福良は以後、秀吉の淡路攻めより福良氏、桐原氏、森崎氏等の有力者と蜂須賀氏、稲田氏との配下の治世となるが、森崎家は武士をやめ、十一屋の屋号で廻船業をし、桐原氏は浦長の役を僅かの間ではあるが勤めていた。 

 蜂須賀氏の右腕と言われた稲田氏は、淡路を治める城代家老として淡路に赴任した。 領国は阿波の脇町で、一万石を持ち、大名格の家老であった。

 本藩は、淡路に番所と御屋敷をおいて管理をした。 福良には御屋敷と番所がおかれて、俗称十軒家には御屋敷、洲崎には番所を置いた。 番所は湾内より出入りの船を管理し、特に関所の役目で、武器はもちろん、人の出入で女性の出ることを厳しく管理した。 加えて俵物の出入にも厳しかった。

 番所は淡路全島で21ヶ所に置かれた。洲崎以外では近くに沼島、阿万、阿那賀、湊、吉野に置かれていた。 福良浦の御屋敷(安政6年)の記録によると、御番手は疋田夫兵衛三百五十石であり、輪番制であって、5年が任期であった。 なお、藩でも高禄の武士がこの任を仰せつかった。

 この御番手が福良を支配し、配下には鉄砲組の十人衆が置かれた。 この時淡路棟付改めには、津名15浦、三原7浦、加子1,258人、船769とある。 福良の十人衆は、田村力三郎、森崎四郎兵衛、森崎広太、坂東喜六、泊宇兵衛、泊清左衛門、原田評左衛門、藤本民蔵、田村幸吉、田村幸八であった。 各々五石三人扶持であった。 福良の御屋敷の記録には、『享保14年(1729)3月18日藩主、蜂須賀宗員、淡路巡見、柳川町御屋敷で休息、撫養屋敷より一言丸に卯の中刻に乗船、巳の中刻福良に着船、巳の下刻に護国寺に立ち寄り、申の中刻に洲本城に入る。』とある。 因みに、福良御屋敷の警護状態は、次のようである。 主だった武具のみ記す。

 三匁五分筒 十丁、 鉛弾 三百五十、 弾薬箱 一荷、 弓 五張、 弦 五筋、 木綿火縄 拾曲、 三つ道具 壱組 (突き棒 袖がらみ 刺又)


潟上の渡船場と櫟神社、郷殿神社

 櫟神社の前を流れる川は、長見谷を源に福良湾に注いでいる。 潟上のすぐ近くを流れ、妙見橋のかかる現在の新道の商店の裏を流れていた。 祭神の丹生津媛と水神である櫟神社は当初、居神神社に鎮座していたが、ここに移ってきたのは、この川を上ってきたものと思われる。 潟上は福良から撫養への古代の渡船場で、干潟近くまでは満潮を利用して、遷神が容易であったと思われる。
 
 延宝3年(1674)坂東半左衛門了空は、干潟より妙見社までの干拓工事にあたり、干潟渡船場を廃止、新しい渡船場を造るように上申し、仁尾に渡船場を新設することになった。 今、この場所はどこであったのか不明である。 福良の潟上塩田は面積三町余りで、干拓は1699年に完了した。

 年代はさかのぼるが、御屋敷の近くにある神社は「ごんどらはん」と呼ばれているが、正しくは郷殿神社である。 かねてより沼島の梶原氏を討とうと計画していた阿万の郷氏の計画が沼島の梶原氏の知るところとなり、(梶原氏の忍びか、または郷氏の家臣の一部の裏切りか定かでないが)先に梶原氏が阿万の城を攻めて、郷氏を敗走させた。 郷氏はわずかの家臣を連れて、福良の西の荒神ノ森に隠れ潜んだ。 それを詮索中の梶原氏に通報したのが福良のこの周辺の人であって、多額の報償を受けた。 その後この周辺に疫病が流行し、死人が出た。 これは郷氏の祟りであるとのことから、郷氏と家臣十数名を祀り、社を建て、郷殿神社として霊を慰めた。 すると、さしもの疫病も広がらずに済んだと言われている。 


干潟の埋め立てと新しい道路の必要

 塩田の事業の発展のためには、どうしても妙見社より西に向けての道路が必要となり、平瀬氏に伴ってきた阿波より福良に来た商人(浦瀬氏)も新道の建設を望んでいた。 新道川の側面に石を積んで現在の新道が出来、ここに浦瀬姓の多い商業街が繁栄した。 このことから推測すれば、新道の建設に取り組んだのは江戸時代の初期であったのではないかと考えられる。 裏は直ぐに川が流れて、妙見橋から築地橋までの間は満潮になれば海水が満ちてくる。 昭和15年頃まで、大雨の後はウナギ釣りが出来、網を持って小魚すくいが出来た。


武士から廻船業に転じた桐原氏十一屋並びに廻船業井筒屋渡辺氏

 岡之城の城主であった桐原氏は、加藤嘉明に従し、その他近隣の名のある家とも姻戚を持っていた。 岡之城は加藤氏の転封と同時に廃城とし、福良浦の浦長と廻船業を営むことになった。 十一屋と井筒屋の船が動き、漁労がある限り、福良浦は潤い、繁栄は疑いなしと言われた程であった。 因みに、十一屋の繁栄ぶりを伝えるには、諭鶴羽神社の當を行ったのは古より福良の十一屋のみなりと全島に伝わり、島民を驚かすほどの財力を持っていた。 この當は参拝者の悉くを丁重にもてなし、参拝は古き礼法儀式によって参拝するので、この神社の當を行うには、実に多額の費用がかかるものであったと伝えられる。

 慶安2年(1649)「三原郡福良浦棟数人数改御帳」に次の記載がある。
福良浦庄屋 住路甚助籐四郎、 福良浦人口633人、 戸数310、 船66、 寺院2、 坊庵6、 
淡路人口101,374人、 福良御番手 飛田某

 この頃、渡辺家の祖である井筒屋が廻船業を営み、次第に繁栄して福良に富を齎せた。 井筒屋は、宝暦年間(1751〜1763)千石船数隻を持って、北は石巻から九州に至る諸国の物産を取り扱っていた。

 また、この家より出た藪華藏という能筆家があり、はじめ慈眼寺の成信に学び、のち自習して大成し、藩主の知るところとなり、藩主の面前で揮毫したと言われる。 その子の裏八、和蔵も父に次ぐ能筆家であった。 これらの書は慈眼寺に残っている。 藪家は酒を造り、住所は住吉町の西角にあったと言われる。 

 その基礎となった大きな源は人であり、教育によるところである。

 この頃の子弟の教育は、寺が行っていた。 真光寺、報身寺、重恩寺、慈眼寺、神宮寺に加えて、
2,3の私塾があった。

 この寺々には見落としてはならない石造の貴重なものがある。 慈眼寺に法界塔、薬師如来石碑。 真光寺には瞽女子冬碑。 報身寺には徳本六字名号碑があり、これらはたくさんの由来を含むものである。

 石造物の一番多く残るのは、先ず、岡尾山の石造の四国八十八か所の石仏である。 これは福良において最も不幸な悲しい出来事に由来して設置されたのである。 江戸時代の三大飢饉といわれる寛永、享保、天保の飢饉である。 福良は、天保の8年8月頃より食糧不足と同時に疫病が流行し、1300人の死者が出て、180軒の家が無住の空家となった。 報身寺、真光寺の過去帳は、このことを如実に残している。 さしもの疫病も天保9年の秋頃より下火となる。 この時の福良の庄屋は、岡田仁左衛門、山口吉十郎の二人で、途中に福良の浦会所を去っているので、当時の記録はまったく残っていない。

 三原郡奉行の佐藤兵次は、この時懸命の救護にあたり、神宮寺を泊所として帰宅せず。 下火になっていた疫病も天保の1839年の暮れに再流行し、4月にようやくおさまった。 病原菌はコレラであり、発生地はインドのカルカッタで世界に波及して日本にも大流行した。

 岡尾山の新四国八十八ヶ所霊場石碑は疫病犠牲者の供養のため、福良の町内の各辻に建てられていた石碑を岡尾山にまとめたものである。 患者の多く出たのは仲之町、戎町、住吉町、鳰谷に集中していた。 岡尾山の石碑建立には、遠方の志筑からの援助があり、中心となった浜本盛光という人物の救援が多大であったと言われ、福良の浜田屋甚助、砂子屋与平、田村幸太郎、田村玉之助、十軒屋勝次等が「建立世話人」であった。

 天保9年7月、幕府の疫病蔓延の視察巡見使一行が福良に来た時には、十一屋、山口屋、太子屋、神宮寺、慈眼寺を宿泊所にした。



報身寺、真光寺の過去帳調べ

報身寺檀家250 内福良200真光寺檀家数120 内福良80
天保4年 死者数 21人 死者数 4人
天保5年 25人 8人
天保6年 51人 7人
天保7年 25人 18人
天保8年 138人 48人
天保9年 65人 31人
天保10年 17人 9人

 福良本来の豪商は、十一屋、井筒屋、豪族として四宮八郎右衛門宗貞の名が挙がるが、詳細は不明である。また、蜂須賀氏に由来する平瀬と浦瀬家は手広く商いを営み、酒、油、醤油等そのほか多くの商品を製造した。

 平瀬家の初代は十右衛門、二代善左衛門、三代五左衛門、四代権之助、五代茂八、六代五左衛門、七代左馬太、八代王藏である。 何代かの時に泉家が分かれて出来ている。

 十一屋と共に武士を捨て商人になった十一屋の分れがある。 関係は不明であるが、屋号は十燐と書いて「そうりん」と呼ぶ。 昭和初期まで高級料亭を営んでいた。 高田格郎氏が有志数名と計り、淡路史談会を発会したのが十燐亭の席であった。 当時の福良の有志はすでに他界しているが、歴史の史料には萩原半翠氏の福良古事記によるところが大きかったと記されている。

 福良の中山赤坂下に「鏡ヶ淵」という所があり、ここに歌碑が建っている。
『立ち寄りて 鏡がぶちをながむれば さてもやつれしわが姿かな』

 どこかだれかの有名な歌人に似たような老いをはかなむ歌である。 
作者は和泉式部とある。 鏡ケ淵は、さてどこやら?   
 (注:高田格郎氏は大内兵衛が大恩人と呼んだ教育者で、福良小学校で教鞭をとった校長)





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第5回 郷土史(近世 〜 近代)

徳田 壽春
明和7年(1770) 淡路に大旱魃が襲い、各地で雨乞いの祈祷をする。
明和8年(1771) 平瀬平助が福良浦で〆油業を創業する。屋号は太平と言った。
天明2年(1782)

異常気象 豪雪地帯では雪が降らず、五月の田植えが終わると急に寒くなり、稲が実らず、麦も腐る状態であって、秋は早冷となる。

天明3年(1783)

全国的に大飢饉に見舞われ、淡路島民も大困窮に陥る。
「縄騒動」宮村の才蔵 山添の清左衛門
縄供出の不満を持つ金谷村、中筋村など九ヵ村の百姓が大宮寺の鐘を合図にして一揆を起こした。 上記の百姓二名は磔の刑に処せられ、桑間の河原において、さらし首にされる。

天明4年(1784)

昨年来の「天明の大飢饉」は淡路の農作物にも甚大な被害をもたらし、その上農作物は冷害で三分作、6月風雨と冷害で綿入れを着なければならないほどの気候となる。

天明6年(1786) 洪水で淡路の米51,446石を損失する。
天明7年(1787)

国衙の庄屋 重右衛門、飢饉により街送りの御役御免を願い出る。 街送り制度は藩役人が公用で村に入ると、その間の費用を全て其の村が費用を受け持つという規則である。

以上が明和7年(1770)から天明7年(1787)の注目すべき事柄である。

天保9年(1838)

4月、コレラの流行が収まり、7月には幕府の巡検使が福良に来る。 宿泊所は平瀬家と十一屋であった。福良浦の泉屋甚之助が醤油醸造業を創業し、[御膳醤油]という品名で売り出した。

天保13年(1842) 徳島藩が伊賀野村に御用陶器所[お庭焼き]を設置し、賀集a平に指揮監督を命じた。
天保15年(1844)

賀集a平が京都より尾形周平を招き、仁清風の陶器製作を始める。
福良の漁師渡七平が伊勢宮参拝の帰途に大和三輪で素麺製造法を習得して福良で開業する。 また、一説には弘化2年(1845)巻山清蔵と天羽幸吉が創業したとの説もある。 どちらが正しいのかは不明である。 素麺の製造を始めたのは福良浦には冬季の漁業の不漁期の家内工業としては最適の仕事であり、気候にも恵まれていて、現在にまで発展する要素が整っていた。

安政2年(1855) 煙島に最勝王経の石碑を建立する。願主は野上正武氏。
文久2年(1862)

福浦元吉が大阪で勤皇活動をする。
元吉は本名を津村元吉といい、現在の備前町下町の津村釣り道具店が生家である。 当時は桶屋と釣り道具店を兼業する家で次男として文政2年に生まれた。 成人して、洲本幸町の穀物商中屋の養子となり、福良と洲本間の飛脚業をしていた。 その後どういう縁かわからないが、津井村の古東領左衛門の知遇を受け、剣道を習い、相当の腕前となり古東家の男衆となった。 この主家の古東と元吉は当時の幕末期、過激な天誅組に属して命を落とした。 明治24年、朝廷は生年の勤皇の労を賞し従五位が贈られ、靖国神社に奉られ、福良で国に殉じた第一号の戦死者である。(古東領左衛門並びに天誅組については省略する。)

慶応4年(1868) 8月27日 明治天皇が即位する。9月8日に明治に改元する。
明治3年(1870)

8月13日 稲田騒動(庚午事変)が起こる。
蜂須賀家臣数百人と銃卒4大隊が大砲4門で洲本を襲撃し、稲田学習所「益修館」、「宇山武山邸」を襲い、屋敷25棟を焼き払い、稲田側の即死者115人、重傷6人自決2人、投獄監禁300人余りという稲田側の大参事となった。 この騒動の時に、福良から洲本へ駆けつけ、襲撃に加わった林富太郎がいた。 富太郎は福良御屋敷勤番の林宇兵衛の息子と言われる。

稲田家の家老井上九郎衛門の家来、仁木儀左衛門が阿波脇町猪尻に向かう途中に、賀集田中橋付近で福良からの出兵の蜂須賀藩の兵によって射殺される事件が起きた。淡路の稻田の武士と蜂須賀の武士の間には根深い確執があり、幕末期にはそれが顕著になってきていた。 時の明治政府は此の事件に厳しい処置をとり、主犯格の新居水竹と小倉富三郎は東京芝白金の藩邸で切腹の刑に処せられる。 その他、蜂須賀藩士、八名が日本刑法史上最後の切腹の刑を受けた。 福良浦御屋敷の蜂須賀藩士、林富太郎、佃進衛の2名は伊豆新島、八丈島へ流罪となる。

明治5年(1872)

6月に里長、庄屋制度が改正される。 変わって、戸長・用掛と名称が改まった。 福良は戸長に賀集隆蔵、副戸長は平瀬守一郎で、伍長は井筒屋渡辺重吉であった。
7月1日 福良郵便物取扱所が開設され、初代所長は泊宇平氏であった。

明治6年(1873)

福良の寺子屋は真光寺、重恩寺、報身寺、慈眼寺であった。 福良の私塾は、土居賢三、片井与平、田村量平等の教育施設があったが、新しい教育制度が施行されるに至り、福良小学校となって旧神宮寺を仮校舎として創立される。
洲本城の稲田邦植が家族とともに北海道の静内に移るが、その後、弟の邦衛に土地家屋を譲り、徳島の脇町に移る

明治7年(1874)

福良の向谷に向谷焼、阿万a平焼、亀山焼(阿万)、穀内焼(北阿万)等に焼き物の製造が行われていた。 この時期の福良の人口は、5,606人 戸数1,015戸 淡路人口 160,906人

明治9年(1876)

上町の原田川に架かる橋が太子屋の分家より6代目の平瀬守一郎氏の寄付によって、架替建造された。 橋名は年号に基づき、「明九橋」と名付けられた。
この頃の平瀬氏は、「太平」、「太長」を親類に、「太林」、「太利」、「太重」、「太新」を番頭に、夫々任せて広く商いをさせていた。 また、苗字も福良浦の浦と平瀬の瀬を結んで浦瀬姓を名乗らせた。

明治11年(1878) 6月28日 静岡県春野町本宮より福良秋葉神社を勧請する。
明治12年(1879)

世界的な規模でコレラが大流行する。 日本全国で死者約105,000人、三原郡で328人、津名郡で594人の死亡者が出た。 福良の小学校(循誘小学校という名称でこの頃呼ばれていた。)が30日間休校する。

明治16年(1883)

住吉町、谷川町、戎町、仲之町に布団壇尻が作られる。福良町役場庁舎が新築され、戸長は守本理一、用掛は伊月禮次郎、橘俊太郎であった。

明治17年(1884)

8月25日 慈眼寺が弁天仮堂より出火、南風で二堂を残し、全てが焼失する。(明治15年7月5日との説もある。)

明治20年(1887)

4月1日 循誘小学校が4年生の簡易小学校を併設し、「福良尋常小学校」と改称される。  

明治22年(1889)

戸長制度が廃止され、町村制度が施行される。 初代福良町長は岡田長七郎、二代は泉甚五郎であった。

明治26年(1893)

伊賀野で賀集a平の興した「淡陶社」が「淡陶株式会社」としてタイルの生産を始めた。
この後、福良でも旧要塞錬兵場が陸軍省より払い下げられ、大正7年に福良分工場が落成操業開始することになり、工場長は能勢敬三氏で、これまでの湿式の製法から能率的な乾式製法を採りいれ、タイル生産での業績を上げることになる。

明治26年(1893) 福良〜洲本間に馬車が開通する。(1日3往復、運賃は50銭)
明治27年(1894) 陸軍工兵隊 由良と鳴門岬に要塞の建設を開始する。
明治28年(1895) 慈眼寺が再建される。
明治29年(1896) 11月3日に岡尾山麓に(納屋町)福良小学校が新築される。
明治30年(1897) 3月 鳴門要塞が完成する。
明治34年(1901) 桝井座(福良劇場)ができる。 納屋町に席亭「宝來座(宝來湯の前身)」ができる。
明治35年(1902) 福良の波止(新波止)に道路標柱が建てられる。
明治37年(1904)

2月6日 日露開戦
由良要塞の所属船が特命により旅順港封鎖作戦に出動。
12月15日 由良要塞の28サンチ榴弾砲が旅順203高地の攻撃に使用される。
5月27日 日本海海戦の戦艦「朝日」に福良の村上庄太郎が乗艦していた。(「不知火」には艦長として、志知の桑島省三少佐が乗艦する。)


 以降は、大正、昭和、平成と時代は移っていくが、昭和になって順次に戦時色が濃くなっていったのは、周知のとおりである。


 私事で恐縮ですが、小生の子供時代は戦時の時代で、物心がついてきた時に日本は戦争へと突入していった。 小学校は「国民学校」となり、太平洋戦争の始まった年の入学である。(昭和16年12月8日開戦) 戦時と戦後を子供ながら体験したことは、今となっては思い出となった過去であるが、今まで生かされてきたことに感謝しなければならない。 特に楽しかったとは言えないけれど、育った近くは新道の岩川という所で、すぐ近くに「忘吾園」という陶器の工房があったことで、ここで大人の仕事を見たり遊んだりした。 4,5歳の頃には、欅田のお兄ちゃんが紙で鎧を作り、それを着せられたことを覚えている。 写真機を持っていて、写してもらったことも覚えている。 この仕事場は、昭和の終戦近くまであったと記憶している。




本講演資料作成にあたっての参考文献       
「味地草」 小西友直、錦江 
「福良むかしむかし」  前田勝一
「南淡路の歴史」  森 忠男
「福良町誌」 高田格郎
「福良古事記」  萩原伊平
「近世淡路史考」  武田清市

 






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第6回 福良の町名由来に関する研究発表

太田 良一
1.研究の趣旨及び目的

 私たちの郷土福良には、古の昔から素晴らしい自然や文化・歴史と共に22の自治会が残されています。 これらの自治会名は、福良の先人たちが歩き築いた生活の中から生まれたものであろうと思われますので、現代の我々がこれらを窺い知り、先人たちの熱き想いに触れ、これらを共有するなかで、自分たちの生まれ育った郷土への誇りと愛着を育むべく、瀬戸の潮みず交流広場福良学教室において、自らが「福良の町名の由来」についての調査研究を行うものである。 

 なお、本研究成果については、交流広場の別動班において町名由来の表示看板を作成設置し、地域住民や観光客等の来訪者にも広く発信するものとする。





2.調査研究に際しての使用参考文献等の資料一覧

(1) 「福良浦分間絵図(南淡公民館蔵 天保6年)」
(2)

「味地草(三原郡編三 小西友直氏とその子錦江 安政4年)」
(副本謄写本の南岳利英氏現代使用字修正版)

(3) 「福良古事記(萩原伊平氏 明治29年)」(中西英夫氏現代使用字修正版)
(4) 「福良字限大図」(「福良財産区30年のあゆみ(昭和62年)」綴込図の修正版)
(5) 「福良むかしむかし(前田勝一氏 平成3年)」
(6) 「淡路こぼれ話(森 忠男氏インターネットHP)」
(7) 「南あわじ市内自治会区域図」(「続三原郡史」綴込図の修正版)
(8) 「続三原郡史(南あわじ市 平成21年)」




3.本報告書の添付(絵)図一覧及び説明

 (1)  南あわじ市自治会区域図

 市内全202自治会の所在区域を表している。 自治会は、大字単位で成り立っているのが南あわじ市内の一般例ですが、福良の場合、他地区と異なり、福良地区一本で大字単位となっており、市広報にて「地名の由来」が大字単位で連載されていますので、福良の自治会単位毎の掲載はあり得ないこととなります。


 (2)  福良字限大図

 明治初期に作られた大字福良全体のうちの各小字の集合所在図となっており、実質的には登記所の公図と同じものであります。 注目すべき点は、古くからの市街地である東一丁目から十軒家までについては、字名と町名がほぼ一致しています。 他に、新たな埋め立て地である築地、浜町(字白木)、東一丁目から十軒家までの地先の埋め立て地(字新島)などは別図となっており、従って、この図の海岸線は、明治初期のままとなっています。


 (3) 向谷之図(味地草挿絵図)

 (4) 八幡社地之図(味地草挿絵図)

 (5) 福良市坊方図(味地草挿絵図)

 (6) 三院之図1/2(味地草挿絵図)

 (7) 三院之図2/2(味地草挿絵図)

 (8) 牛王殿祠(十軒家)(味地草挿絵図)

 (9) 洲崎及煙島(味地草挿絵図)

 (10) 弦島古城蹟之図(味地草挿絵図)

 (11) 海褝莽(刈藻)(味地草挿絵図)

 (12) 自行者嶽遠望之図(味地草挿絵図)


 

4.町名に関する文献記述の抜粋紹介

 本研究については、前田勝一氏が自らの著書「福良むかしむかし」の中で大概をまとめられていますが、22の全自治会を網羅するまでには至っていない。 そこで、「福良むかしむかし」の補足資料として、古い資料順に、次のとおり関係部分を抜粋紹介いたします。 

 なお、一般に古文書の解釈は多岐に亘ることが多いので、出来るだけ忠実に、原文のまま転載しました。



 (1)「味地草」の巻頭、福良浦の項の抜粋 

福良浦(参照図 味地草挿絵図)

 道範紀行に六日にも至れば国府(中八木なり)を立て三里福良の泊に着けり 
此所に西風烈しくして三日滞留よりより雪のふぶきすさましく吹いりて海士の苫屋の仮まくら衾にあけて又暮れければ

「沖つ風ふくらの浦に日数経てならはぬ波にぬるゝ袖哉」

「行先も我故郷にあらなくにこゝを旅とはなに急くらん」

 兎角して神仏に懇祈すれば其しるしにや浪風をさまり十日に福良が浦より船にのりて阿波の鳴門を渡り撫養佐井田にいたる海路三里程島々の入江入江景気に心をたのしむ事かきりなし <下略>

此浦相隣村には
阿那賀浦(鳴門崎より原田の奥雷盆の峡に至る長四十町)
伊加利村(雷盆谷の峡より原田の北酒丸谷の峡に至る長六町余)
奥河内村(酒丸の峡より永見谷の奥シダラ谷の峡に至る長十六町程)
飯山寺村(永見谷の谷頭に屬く事一町許)
八幡村(永正谷の奥札立の峡より立石の南大助谷の峡に至る長十三町程)
鍛冶屋村(大油谷の峡より長谷の奥佐助谷の峡に至る長五町余)
塩屋村(中の谷の峡より胯の海の北柳が浦の峡に至る長三町許)

阿那賀浦境は鳴門岬峡通を以て定む 市坊家数七百許 艮より坤に続き十町餘 乾より巽へ幅二町許 西に十軒家あり 東に新道あり 家居相続けり 市坊大抵二筋 山手にあるを上ハ町と云 玄海浜にあるを下タ町と云 其次第左の如し

上町一丁目(北に真光寺あり)
同二丁目(橋あり薬師谷清水谷下流に架)
納屋町(橋あり原田川の下流に架)
備前町 
中ノ丁(北に重恩寺報身寺あり)
戎町(御制札慈眼寺我詞あり)
住吉町 分一町 網屋町
谷川町(谷川町の西は波戸也支丁に柳川あり)
<以上各上へ町なり>

下町一丁目
同二丁目(橋あり)
納屋丁(橋あり)
備前町 中ノ丁 戎町 住吉町 分一町 網屋町
<已上各下町也>

新道(市坊の東にあり長二町餘商屋つづく此間に八幡神社神宮寺住吉社等あり)
十軒家(波戸の西にして町二町餘家居つづく其西に御船舎念仏堂あり)
行邸(波戸の上丘にあり郷殿社は裏手にあり)

 国君の行邸住吉は御奉行屋敷と称し今の慈眼寺門前戎丁にあり 延宝年中今の地へ移転す 此時の関司飛田氏某(忠右衛門嘉右衛門二代相つづく)政令を執行ふ 国君の阿波に通行せし時は浦長岡田氏の宅へ御入ありて御茶屋と称し修造も時々加えられしが後行邸御殿を造営し也 依て戎丁の旧邸は十一屋某(太郎兵衛と称す)其時里正の職たりし故宮所所の命を蒙りて通銀二百匁を以恩寵し則中ノ丁北側の宅なり 其官券も彼家に伝持する 古波戸制札場の此家の近傍にありしは昔行邸のここにありし時の形猶存せる也

下町濫觴 寛永中津吏飛田氏命を受け下町割を指揮して分一町まで可
此時肥前島原の乱起り飛田氏は九州の地理弁用の人にして発向の命を蒙り 起程の装ひを尋ねし終に島原の騒乱も静謐して発向も止り町割は分一町切に中絶して有ける

然るに中世網屋町の列軒火失して其後願を経て下町筋を網屋町に通し谷川町水道まで通徴す
昔分一町まで下町の在し遺風に今八幡神会の特華表より神輿出御して上へ町通をとふり郷殿にてのりと申後還御は網屋町と分一町の小路より下町へ廻り下町通りを宮まで還御する也

分一町海浜に長十四五間許の小波戸あり 此地は諸魚を集め市をなす所にして市場の波戸とも呼
波戸の行詰に一筋の横小路あり 昔は郷殿敷と云 今番卒の住地にして俗呼んで十軒家或は十人者とも云行邸の西に川筋あり殿川と云 昔飛田氏某在勤の時用水の為箱樋を架爰に通水す 此故に殿川と呼也

往古の波戸は原田川の末備前町下町とも東角の川岸に遺跡あり 古波戸と云今の波戸は市坊の西端にあり
新波戸と呼 海上の里数は左に記す

撫養岡崎(三里)阿那賀(二里)紀州和歌山(十三里)大阪(三十里)由良(八里)沼島(二里半)鳴門(一里十六町)洲本(九里半陸路五里十九町二十二間)八幡立石(十九町)湊(八十五町)
地高九百九石八斗三升九合(天保五年甲牛十二月改正)
内一石一斗一升六合此畝数田五畝十七歩 貞享二年田牒の表にて引賜はる
一石八斗三升 山下美晴大夫拝領
三石 小高取 仁左衛門岡田拝領
家数九百七十八軒



 (2)「福良古事記」巻頭部中ほどの項の抜粋

 (元和元年、蜂須賀候渡海の為、加子を差し出す段)一丁目より網屋丁まで●百五十軒程なり。 其外東谷、西谷之人之人家、合弐百軒余り、網屋丁まで浜側ハ舟之登し場而、丁と仮屋浦之様成で有た。 夫より追々浜側ニ家ヲ立、今之姿、依而浜側皆畑地なり。
  追々売人、百姓、漁師、段々繁盛ニ及、家数もまし、新道ニは宮本屋迄ハ歩屋敷、夫より東ハ田畑なり。 
 


 (3)「福良古事記」の「地処小名之事」冒頭部の抜粋

 向谷、大江、祖江、是ハ昔ハ皆入江ニ而、奥迄汐之行し所。 祖江ハ十一屋太良兵衛、元禄比築ク。 田地トス。 大江谷分、久兵衛之先祖築、田地トス。 塩田ハ板東半左衛門、是も元禄之築く。 凡四丁余、御年貢ハ年々運上金ニ而上納ス。 御一新トナリ、地租究ル。 元禄之比、塩田之出来ぬ時ハ遠干潟ニ而、赤坂恒之内辺迄汐が満タ、今、片山ト言ふハ潟之上之所依而片上ト号。 妙見ト言うふ小名ハ天正之比まで妙見寺と言寺有。 其寺之地ヲ妙見ト言ふ。 其脇一弐反田地有。 我等先祖所有地で有たニ依而今に鍵屋田ト言ふ。 鷺の森ハ余程古き森ニ而大ムキなる槇の元口一間廻り壱丈余。 此年暦千年ニも及、今ハかれて株斗り残り、其株より生し槇も二百年位也。 此処ニ一間四方之埋葬之跡有て掘シに骨も何ニもなし。 よふよふ宝鐶壱ツ有て夫を取出し、●神講中間之箱ニ入置、家々廻しする内、紛失し其行衛しれず。 金正金ニ而有りしと思ふ。 其講中之内ニ余程手元之能い家一軒有。 其子孫皆手元よし。 今ハ●●ニ及ふ。 是ヲ考て見ると平家亡落之節、流れ付、御きさきでも埋めし物成歟。 一ニならす。 洲崎より蛇のひれへ続キしに宝永之津波二切れしと言伝ふ。 



 (4)「福良むかしむかし」の「福良の地名」の項の抜粋

仁尾
 水銀及び朱をとる朱砂採掘場であると伝える。 朱砂は水銀と硫黄の化合物、即ち硫化水銀で、鉱土は美しい赤色をしている。

 現在、朱というと、印肉の朱や、橙色というが、昔、朱という真っ赤で、強いマルーン色をいうた。
昔は、採掘技術も幼稚で、深鉱採掘が出来ないので、表土から、わずかの深さを掘れば他に移る。
採掘場または製錬場には必ず、丹生津媛命即ち、水銀媛を祭神として祀る。
丹生津媛命にちなんで、丹生、丹歩、仁保等があって、福良の仁尾もその類である。

仁尾には他にも説がある。 
 別項「応神天皇淡路御原離宮跡」でも書いたが、新羅の帰化人、須々許里が天皇に酒を献上し、大変喜ばれた天皇が彼に対し酒造りの名人として仁番(にほ)の名を賜った。 須々許里が酒を造った処を仁番(仁尾)というた。 この話は、古事記にあるが、格別、須々許里(仁番)が福良に住んだという史実はないから、いつの頃か、誰かのつくり話であろう。 

 仁尾はまた、鳰とも書く。 鳰は、かいつぶりの事である。 水に入る鳥であることを示す字である。 昔は、この辺は深い入り海で、また広い干潟でもあった。 従って虫や小鳥が沢山いたのだろう。 従って、沢山の鳰などが来たであろう。 鳰が仁尾になったという説、これは肯けるように思う。
もう一つ、こんな説もある。 源平時代、煙島で平敦盛の首級を荼毘にした。
この焼いたくさい匂いが、この地まで、「にお」って来たので、仁尾となった。 これは故老が、私を担いだのかも知れぬ。


築地町
浜町
 何れも埋め立て地で、もともと地名がないので新しい名称。 昭和11年5月、欅田善九郎他、福良土地株式会社を創立し、塩田及び港内の一部埋め立てを計画し、柴田伸二が請負人となって、昭和13年8月埋め立て完了した。

 埋め立て地なる故をもって、東京の築地の例にならって、築地町と名付けた。

 浜町は、昭和41年、白木谷の浜先を埋め立て完了して、新地が出来た。
漁民住宅を始め、各業種の建物、商店、住宅も建ち並んで、まとまりのある町になり、ここを浜町と名付けた。

 築地も浜町河岸も東京の有名な地名で、若い時、東京で働いたことのある私には、大変なつかしい、いい地名と思っている。




5.町名の由来作成

 前項「4.町名に関する文献記述の紹介」と「福良むかしむかし(前田勝一著)」の「福良の地名」の記述内容及び解釈などに、福良学教室の「福良の歴史」の成果や歴史的考察等を加え、次のとおり、「福良の町名の由来」を作成いたしました。 うずしお台については、資料がないので、関係者への取材等に基づき作成いたしました。 なお、別動「町名由来看板の設置」班の作成する看板面の大きさが限定されると思われるので、可能な限り簡潔な文章に留めています。


 〇 東本町

 福良の市坊からの位置上、以前は東谷と呼ばれていたが、昭和のいつしか東本町となった。 古代、南海道が中山峠を越え、淡路での終点福良駅が馬宿にあったとされ、今も昔も、東の玄関口として、交通の要衝である。 


 〇 本町

 江戸時代初期に、福良の市坊への道路の確保と塩田造成の必要から、河川改修と土地造成が行われ、この地を新道と名付けられた。 往時から、淡路を代表する商家が軒を並べ、大いに繁栄し、昭和のいつしか本町となった。

 
〇 向谷


 福良の市坊からの位置上、向谷と呼ばれている。 古代、南海道の四国への渡海場であった片(潟)上、勾玉等の工房であった玉造、明神を祀る居神など、この地に謂れのある字名の土地が多い。


 〇 築地

 昭和13年に、福良土地株式会社によって埋立てられ、東京の築地の例に倣って名付けられた。 平成になり、更に県の埋立ても進み、福良港ポートターミナルとして再整備され、福良の観光拠点となっている。


 〇 東一丁

 昔から福良の市坊東端にあって、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、先ずは東から順に一丁目と名付けられた。 往時から「花の一丁目」と呼ばれ、賑わっている。 なお、明治初期に東西の一丁目に分けられた。


 〇 西一丁目

 昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、先ずは東から順に一丁目と名付けられた。 往時から「花の一丁目」と呼ばれ、賑わっている。 なお、明治初期に東西の一丁目に分けられた。


 〇 二丁目

 昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、真光寺の筋から清水の川筋までを、順に、二丁目と名付けられた。 往時から商家なども多く、賑わっている。  


 〇 北納屋町

 昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、清水の川筋から原田川までを、浜端に漁具納屋が並んでいたことに因んで、納屋丁と名付けられ、戦時中に、南北の納屋町に分けられ、現在に至っている。


 〇 南納屋町

 昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、清水の川筋から原田川までを、浜端に漁具納屋が並んでいたことに因んで、納屋丁と名付けられ、戦時中に、南北の納屋町に分けられ、現在に至っている。


 〇 備前町

 昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、原田川から報身寺の筋までを、昔々備前の国から観音さんが漂着し、慈眼寺でお祀りしたとの言い伝えから、備前丁と名付けられた。 


 〇 仲之町

 昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、報身寺並びに重恩寺の筋から慈眼寺の筋までを、三院が集まり、市坊の中程に位置していることから、中ノ丁と名付けられた。


 〇 戎町

 昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、慈眼寺の筋から次の筋までを、慈眼寺の筋、上町北側東角の御番所があり、その西隣に戎社が祀られていたことから、戎丁と名付けられた。
 
〇 住吉町
 昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、戎丁筋界から分一波戸(ぶんにちばと)の筋までを、元禄年間までこの町内に住吉社が祀られていたとの言い伝えから、住吉丁と名付けられた。
 

〇 五分一町

 昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、分一波戸(ぶんにちばと)の筋から網屋丁筋界までを、この波止付近で市が行われ、五分の一即ち二割を徴収していたことから、分一丁と名付けられた。
 

〇 網屋町

 昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、分一丁筋界から柳川までを、浜端に網置小屋が並んでいたことに因んで、網屋丁と名付けられた。


 〇 谷川町

 昔から福良の市坊の西端に位置し、この地に柳川が流れていたことから柳川丁と名付けられ、いつしか谷川丁となった。 ここには柳川庵もあり、上町には柳川橋も架けられていたが、今は暗渠となっている。

 〇 東十軒家

 新波戸の西北高台に蜂須賀藩福良浦御屋敷があり、御屋敷付十人衆がこの地に住んでいたことから十軒屋と名付けられた。 なお、戦時中に、殿川を境に、東西の十軒家に分けられ、現在に至っている。
 

〇 西十軒家

 新波戸の西北高台に蜂須賀藩福良御屋敷があり、御屋敷付十人衆がこの地に住んでいたことから十軒屋と名付けられた。 なお、戦時中に、殿川を境に、東西の十軒家に分けられ、現在に至っている。

 
〇 浜町

 昭和41年に、福良漁業協同組合によって白木谷前が埋め立てられ、漁業関連施設を中心に漁民住宅や商店も建ち並ぶまとまりのある町となり、浜町河岸のイメージに相応しいことから名付けられた。
 

〇 仁尾


 昔、この地に水銀や朱を採る採掘場があり、丹生津媛命が祀られ、丹生から仁尾と名付けられたと言われている。 また、鳰(にお)と呼ばれる水鳥の生息地であったことから地名化したとの説もある。


○ かるも

 福良の市坊からの位置上、以前は西谷と呼ばれていた。 この地に二つの集落があり、苅藻は海部、鳥取は鳥取部の部曲の人たちがそれぞれ暮らしていたと伝えられており、町名は代表する苅藻を平仮名にしたものである。
 

○ うずしお台

 昭和40年台後半に、大都リッチランド株式会社によって、眺めの良いこの地を、別荘地向けなどの宅地造成がなされ、近くに福良湾を、遠くに鳴門の潮すじを同時に望める絶好の景勝地であることから名付けられた。




6.福良の町名由来に関する研究のまとめと提言

 福良の町名の大半は、江戸時代初期に行われた市街地の町割りに伴い、名付けられたものでありますので、今から約400年前のことであり、更に、福良の歴史は、南海道の福良駅や四国への渡海場の設置が約1,300年程前のことであり、もっと遡れば、海人族がこの地に住み着いたのが約2,000年以上も前のことであると考えられるので、福良の町名も随分長い歴史と伝統を誇っていることとなります。 

 これらの町名は、先人たちの生活の中から生まれ、時には生活そのものであったり、また、未来への切なる希望や願いでありますので、これらを受け継ぐ私たちは、今更ながら、大事に且つ大切にしなければならないし、また、他所に誇れる財産として、後世に正しく伝えていく責務を負っていると言わざるを得ません。 本当に大事にしなければならないと思います。

 ところが、福良の今の住所表示では、字名が省略されているために、次第に字名即ち町名も使われなくなってきています。折角、各町名には、謂れや故事があり、夢と希望を育み、自分の住所地への愛着と誇りを持てるものがあるのに残念でなりません。 時折、新聞などで、「福良甲の市道で事故発生!」などの報道をよく目にします。 この甲、乙、丙は、地番に付いた符号であるのに、あたかも字名であるかのように、堂々と、間違って使われており、現場は何処なのかもよく分らないし、更に嘆かわしいのは、いつの間にか福良の人ですら、甲、乙、丙は字名と思っている方が少なくないように思われます。

  そこで提案ですが、福良の住所表示などには、私たち福良人にとって最も馴染みの深いこの町名を、甲乙丙から始まる地番の前に、広く使用してほしいと願いたいものであります。 





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