天保9年(1838) |
4月、コレラの流行が収まり、7月には幕府の巡検使が福良に来る。 宿泊所は平瀬家と十一屋であった。福良浦の泉屋甚之助が醤油醸造業を創業し、[御膳醤油]という品名で売り出した。 |
天保13年(1842) |
徳島藩が伊賀野村に御用陶器所[お庭焼き]を設置し、賀集a平に指揮監督を命じた。 |
天保15年(1844) |
賀集a平が京都より尾形周平を招き、仁清風の陶器製作を始める。
福良の漁師渡七平が伊勢宮参拝の帰途に大和三輪で素麺製造法を習得して福良で開業する。 また、一説には弘化2年(1845)巻山清蔵と天羽幸吉が創業したとの説もある。 どちらが正しいのかは不明である。 素麺の製造を始めたのは福良浦には冬季の漁業の不漁期の家内工業としては最適の仕事であり、気候にも恵まれていて、現在にまで発展する要素が整っていた。 |
安政2年(1855) |
煙島に最勝王経の石碑を建立する。願主は野上正武氏。 |
文久2年(1862) |
福浦元吉が大阪で勤皇活動をする。
元吉は本名を津村元吉といい、現在の備前町下町の津村釣り道具店が生家である。 当時は桶屋と釣り道具店を兼業する家で次男として文政2年に生まれた。 成人して、洲本幸町の穀物商中屋の養子となり、福良と洲本間の飛脚業をしていた。 その後どういう縁かわからないが、津井村の古東領左衛門の知遇を受け、剣道を習い、相当の腕前となり古東家の男衆となった。 この主家の古東と元吉は当時の幕末期、過激な天誅組に属して命を落とした。 明治24年、朝廷は生年の勤皇の労を賞し従五位が贈られ、靖国神社に奉られ、福良で国に殉じた第一号の戦死者である。(古東領左衛門並びに天誅組については省略する。)
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慶応4年(1868) |
8月27日 明治天皇が即位する。9月8日に明治に改元する。 |
明治3年(1870) |
8月13日 稲田騒動(庚午事変)が起こる。
蜂須賀家臣数百人と銃卒4大隊が大砲4門で洲本を襲撃し、稲田学習所「益修館」、「宇山武山邸」を襲い、屋敷25棟を焼き払い、稲田側の即死者115人、重傷6人自決2人、投獄監禁300人余りという稲田側の大参事となった。 この騒動の時に、福良から洲本へ駆けつけ、襲撃に加わった林富太郎がいた。 富太郎は福良御屋敷勤番の林宇兵衛の息子と言われる。
稲田家の家老井上九郎衛門の家来、仁木儀左衛門が阿波脇町猪尻に向かう途中に、賀集田中橋付近で福良からの出兵の蜂須賀藩の兵によって射殺される事件が起きた。淡路の稻田の武士と蜂須賀の武士の間には根深い確執があり、幕末期にはそれが顕著になってきていた。 時の明治政府は此の事件に厳しい処置をとり、主犯格の新居水竹と小倉富三郎は東京芝白金の藩邸で切腹の刑に処せられる。 その他、蜂須賀藩士、八名が日本刑法史上最後の切腹の刑を受けた。 福良浦御屋敷の蜂須賀藩士、林富太郎、佃進衛の2名は伊豆新島、八丈島へ流罪となる。 |
明治5年(1872) |
6月に里長、庄屋制度が改正される。 変わって、戸長・用掛と名称が改まった。 福良は戸長に賀集隆蔵、副戸長は平瀬守一郎で、伍長は井筒屋渡辺重吉であった。
7月1日 福良郵便物取扱所が開設され、初代所長は泊宇平氏であった。 |
明治6年(1873) |
福良の寺子屋は真光寺、重恩寺、報身寺、慈眼寺であった。 福良の私塾は、土居賢三、片井与平、田村量平等の教育施設があったが、新しい教育制度が施行されるに至り、福良小学校となって旧神宮寺を仮校舎として創立される。 洲本城の稲田邦植が家族とともに北海道の静内に移るが、その後、弟の邦衛に土地家屋を譲り、徳島の脇町に移る |
明治7年(1874) |
福良の向谷に向谷焼、阿万a平焼、亀山焼(阿万)、穀内焼(北阿万)等に焼き物の製造が行われていた。 この時期の福良の人口は、5,606人 戸数1,015戸 淡路人口 160,906人 |
明治9年(1876) |
上町の原田川に架かる橋が太子屋の分家より6代目の平瀬守一郎氏の寄付によって、架替建造された。 橋名は年号に基づき、「明九橋」と名付けられた。
この頃の平瀬氏は、「太平」、「太長」を親類に、「太林」、「太利」、「太重」、「太新」を番頭に、夫々任せて広く商いをさせていた。 また、苗字も福良浦の浦と平瀬の瀬を結んで浦瀬姓を名乗らせた。 |
明治11年(1878) |
6月28日 静岡県春野町本宮より福良秋葉神社を勧請する。 |
明治12年(1879) |
世界的な規模でコレラが大流行する。 日本全国で死者約105,000人、三原郡で328人、津名郡で594人の死亡者が出た。 福良の小学校(循誘小学校という名称でこの頃呼ばれていた。)が30日間休校する。 |
明治16年(1883) |
住吉町、谷川町、戎町、仲之町に布団壇尻が作られる。福良町役場庁舎が新築され、戸長は守本理一、用掛は伊月禮次郎、橘俊太郎であった。 |
明治17年(1884) |
8月25日 慈眼寺が弁天仮堂より出火、南風で二堂を残し、全てが焼失する。(明治15年7月5日との説もある。) |
明治20年(1887) |
4月1日 循誘小学校が4年生の簡易小学校を併設し、「福良尋常小学校」と改称される。
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明治22年(1889) |
戸長制度が廃止され、町村制度が施行される。 初代福良町長は岡田長七郎、二代は泉甚五郎であった。 |
明治26年(1893) |
伊賀野で賀集a平の興した「淡陶社」が「淡陶株式会社」としてタイルの生産を始めた。
この後、福良でも旧要塞錬兵場が陸軍省より払い下げられ、大正7年に福良分工場が落成操業開始することになり、工場長は能勢敬三氏で、これまでの湿式の製法から能率的な乾式製法を採りいれ、タイル生産での業績を上げることになる。 |
明治26年(1893) |
福良〜洲本間に馬車が開通する。(1日3往復、運賃は50銭) |
明治27年(1894) |
陸軍工兵隊 由良と鳴門岬に要塞の建設を開始する。 |
明治28年(1895) |
慈眼寺が再建される。 |
明治29年(1896) |
11月3日に岡尾山麓に(納屋町)福良小学校が新築される。 |
明治30年(1897) |
3月 鳴門要塞が完成する。 |
明治34年(1901) |
桝井座(福良劇場)ができる。 納屋町に席亭「宝來座(宝來湯の前身)」ができる。 |
明治35年(1902) |
福良の波止(新波止)に道路標柱が建てられる。 |
明治37年(1904) |
2月6日 日露開戦
由良要塞の所属船が特命により旅順港封鎖作戦に出動。
12月15日 由良要塞の28サンチ榴弾砲が旅順203高地の攻撃に使用される。
5月27日 日本海海戦の戦艦「朝日」に福良の村上庄太郎が乗艦していた。(「不知火」には艦長として、志知の桑島省三少佐が乗艦する。) |