HOME「福良学教室」の概要活動の記録
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付録資料
年表 展示記録 古文書 唱歌



26年度活動の記録


第1回 4月 福良の造船
第2回 6月 現地巡り(柿ヶ原〜門崎など)
第3回 8月 福良の風習
第4回 10月 現地巡り(新四国八十八ヵ所霊場巡りなど)
第5回 12月 福良のやぶ萬
第6回 2月 福良財産区設立60年

<※各項目をクリックすると、資料に飛びます。>






 

瀬戸の潮みず交流広場(福良地区県民交流広場)
福良公民館 〒656-0501 南あわじ市福良甲512-2
TEL:0799-50-3048  FAX:0799-50-3068



















福良の造船のあゆみ


株式会社増井造船所
代表取締役 増 井 健 一

1) 福良の造船業の沿革

  大正の終わりから昭和の初期に漁船・手漕ぎ船(今でいう釣り木造船)造りが始まりで、昭和10年位には焼玉エンジンが製造されるようになり、貨物船の建造が始まり、戦時中に軍の依頼を受け、計画軍事木造貨物船の建造を築地(当時は昭和造船所と称していました。)で、各社が1ヶ所に集合して、取り組んだ。 この本格的な同型船の一括建造方式によって、技術と技能を向上させたと聞いています。 築地に国土交通省(当時、運輸省)の出張所が置かれ、事務業務も福良で行われておりました。 

  昭和30年代は福良出身の由井氏が事務局に勤務されていました。 戦後、軍の徴用船の建造が終わり、各社に分散し、東地区は寺岡・増井・田尻・阿部駒・丸昭・坂本松・坂本、西地区に鈴木・阿部武・阿部鹿・新田・中尾・鳥井・島崎、更に、船溜まり内に水引・潮崎・べんどの各造船所がありました。 

  木製の漁船と生船(鮮魚運搬船)、貨物船(当時の荷物は瓦と木箱詰め玉葱)に始まり、鳴門観潮船(福良港と鳴門市の間の渦の観潮用の客船としての連絡客船)等を建造していた。 

  昭和34年〜35年位に木鉄船を開発。 船体は木製で、水線上は鉄を使用した船を手掛け、鉄加工の技術を学んで直線の集合体から次第に曲線(曲げ加工技術を取得)を取り入れた船型へと技術向上してきたようです。

  神戸港内の艀(はしけ)の半数は福良で造られていた時期もあり、この艀造り(同型船の連続建造)で、鋼船の技術が向上しました。 

  各社が色々な船種を建造し、技術的にはかなり上位であったが、今思うと設計業務を外部業者に外注していた為、技術的なノウハウを管理できず、各社間の競合もあったようです。 また、発注量の激変があったことから、経営が不安定な時期も長くあったようです。 

  現在は、栗の浦・鈴木・増井・阿部駒と阿万地区の坂本の5社と漁船修理のみの1社があり、湾内には6社が事業を行っています。



2) 造船の工程

1. 船主数と建造船の仕様打合せ
2. 見積りと計画設計(概略)
3. 契約
4. 詳細設計と仕様書作成
5. 詳細設計と仕様書作成の承認
  ※現状内航船は内航海運総連合会の承認船のみ建造できる為、契約と設計は総連の承認が必要
6. 検査等の打合せ、承認
  JCI → 小型船舶検査機構
  JG → 国土交通省
  NK → 日本海事協会
7. 起工---着工
  ↓
  NCデータ作成(原図)
  ↓
  NC切断(マーキング切断)
  ↓
  曲げ及小組立
  ↓
  大組立(要検査立会)溶接のみ
  ↓
  船台搭載(要検査立会)溶接と圧力テスト
  ↓
  艤装(ぎそう)工事、塗装工事
  ↓
  進水
  ↓
  仕上げ艤装及運転
  ↓
  海上公式運転(スピード・搭載機器の性能耐久性などの確認検査)
  ↓
  最終仕上げ完了
  ↓
  引渡し



3) 福良の造船実績

昭和初期〜30年

漁船が主であった。
木造船(貨物船)手漕ぎ、エンジンなし (焼玉エンジン)

34年〜35年 木造造船から一部鉄を使った木鉄船(水線上を鉄で、下は木製)
35年〜37年

鉄製(鋼板)
貨物船と艀が主でタンク船(タンクのみ鉄で船体は木製)

38年〜 

鉄鋼船での建造が本格化  技術者は舞鶴・長崎・佐世 保・広島から来ていたようです。

48年〜

貨物船・タグボート(引き船)・タンカー
各社でそれぞれ得意とする船種の受注活動をしている。




4) 福良の造船所数・従業員数

(造船所)
  寺岡・増井・田尻・阿部駒・丸昭・坂本松・坂本・鈴木・阿部武・阿部鹿・新田・中尾・鳥井・島崎・水引・潮崎・べんど

(従業員数)   (造船所直接の数)     
  木造船建造当時 300〜500人    その他関連200人
  鋼船建造時代 250人
  現在       100人     その他関連100人



5) 現状

  坂本造船 艀と19トン未満のタグボートの新造が主
  鈴木造船 漁船と内航船の修理
  栗の浦ドック 内航船と外航船の新造
  阿部駒造船所 内航船のブロック製作
  作業台船の修理
  増井造船所 内航船と外航船のブロック製作が主
  客船の修理・検査



6) 課題

  技術者の不足と機関修理の安定的な受注がない為、他地区より応援に来てもらっているのが現状。 若年者の確保と教育・訓練をして、技術習得をしながら船造りの楽しさを知ってもらう。 特に、進水・引渡し・ブロックを納期内に納品し、船主に信頼され必要とされる造船所(事業所)となること。 これは安定して長期の事業展開に不可欠である。



7) 将来の展望

  船主と造船所のより緊密な相互信頼(仕事をさせてもらっている。 また、船を作ってもらっている。)に基づく事業姿勢を保ち、表裏のない仕事をすることが肝要と思われる。 いわば、『作った品物が営業をする。』ということが理想である。



[参考]兵庫県内の小型造船業者数(兵庫県小型船舶工業会加入者数)

昭和46年 昭和56年 平成元年 平成11年 平成21年 平成25年
76 69 47 35 23 21



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福良学教室現地巡り(郷土史など)の記録


日時:平成26年6月14日(土)9時15分頃〜
集合:9時/福良小学校屋内運動場西側隣

1. 趣旨・目的

   福良の古絵図(「味地草(安政4年小西友直他刊)」付図)等を片手に、柿ヶ原から笹山を経て門崎まで、福良の誇る「世界の絶景・自然美と近代の戦争遺跡や現代橋梁技術の粋」を眺めながら楽しく歩き、福良を再発見・再認識しよう。


2. 概略行程(予定)《福良小学校を9時15分頃に出発、14時頃に帰着予定。
   全行程歩行距離 約3.3q》                                   

凡 例    「箇所名等」、 ⇒ 徒歩、 →→ バス利用、 目安の時刻
 
   「福良小学校(原田)」9:15 →→ 9:25「うずの丘大鳴門橋記念館〔柿ヶ原堡塁跡〕(柿ヶ原)」《施設見学、トイレ休憩》9:45 ⇒ 10:20「笹山駐車場〔笹山砲台跡〕(笹山)」10:30 ⇒ 11:00「道の駅うずしお〔御崎神社、門崎砲台跡、門埼灯台、鳴門みさき荘、大鳴門橋〕(門崎)」《トイレ休憩、見学、昼食休憩、自由行動等》13:40 →→ 13:50「福良小学校(原田)」《解散》14:00 


 
3. 行程箇所別概要の紹介

 * うずの丘 大鳴門橋記念館〔柿ヶ原堡塁跡〕(柿ヶ原)


   うずの丘 大鳴門橋記念館は、昭和60年(1985)の大鳴門橋の完成とそれを記念して催された「くにうみの祭典」に合わせて、兵庫県によって建設された施設です。(現在、市が県から無償貸与を受け、指定管理で「(株)うずのくに南あわじ」が運営中。) 中核施設として、「うずしお科学館」、「淡路人形浄瑠璃館(平成25年築地に移転)」や「展望レストランうずの丘」があり、賑わっています。
   記録によれば、この高台に、明治32年から34年にかけて築造された「柿ヶ原堡塁」があった。 備砲は、28センチ榴弾砲6門(砲座3)、9センチカノン砲4門(砲座2)、15センチ臼砲4門(砲座2)であった。







 * 笹山駐車場〔笹山砲台跡〕(笹山)


   

   笹山駐車場は、大鳴門橋建設に伴い、兵庫県道路公社によって整備された駐車場(休憩施設を含む。)です。 面積は、23,045平方メートルです。   
   記録によれば、明治30年から33年にかけて築造された「笹山砲台」があった。 備砲は、28センチ榴弾砲6門(砲座3)であった。







  * 門崎高架橋(鳥取)



   

   門崎高架橋は、大鳴門橋に接続する、自然条件の厳しい、長く、高い、世界でも稀な海上取付高架橋である。 〔橋長 1,009.50m  上部 7径間鋼床板箱桁
   橋脚 SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)構造〕 







  * 道の駅うずしお〔門崎砲台跡〕(門崎)



   

   年間利用者数は、平成25年実績で約35万人を誇り、福良一番の観光拠点施設である。 南あわじ市の施設であるが、運営は指定管理で「(株)うずのくに南あわじ」が行っています。 平成10年4月に、「道の駅」に登録。  (「道の駅うずしお概要書」参照。)
   記録によれば、明治30年から32年にかけて築造された「門崎砲台」があった。 備砲は、克式35口径24センチカノン砲2門(砲座1)と斯加式30口径9センチ速射カノン砲2門(砲座1)であった。







 * 鳴門御崎神社(門崎)



   

   架橋工事前は、門崎突端に同社の鳥居があり、鳴門越えの船や漁船もこの鳥居に拝礼していた。 現在は、社前に鳥居が建っている。 十月の「おんなみこし祭」は、同社の例大祭であり、多くの福良の人から崇拝を集めています。

 





 * 門埼灯台(門崎)



   

   鳴門海峡は、瀬戸内海と紀伊水道を結ぶ海上交通の要衝で、海上保安庁によって昭和39年に築造された。 〔白色塔形コンクリート造 5,600カンデラ〕







  * 鳴門みさき荘(国民保養センター)(門崎)



   

   昭和45年(1970年)、「淡路鳴門岬公園開発事務組合(現南あわじ市)」によって建設され、今も「道の駅うずしお」の中核施設となっている。


  




  * 関西電力鳴門淡路線海峡横断鉄塔跡(門崎)」



   

   昭和36年(1961年)、世界初の「アドバルーンを使用する特殊工法」にて66,000Vを四国電力から空中架設し、さらに昭和47年(1972年)からは187,000Vを買電運転されてきた。 平成9年(1997年)、大鳴門橋へのケーブル添架完了に伴い、海峡横断鉄塔は撤去された。







  * 大鳴門橋(鳴門海峡)



   

   昭和60年(1985年)6月8日開通の大鳴門橋は、渦潮で有名な鳴門海峡を渡る吊橋で、本州四国連絡橋公団(現本州四国連絡高速道路株式会社等)によって建設された。 〔橋長 1,629m  中央径間長 876m  形式   3径間2ヒンジ補鋼トラス吊橋  上部道路 片側3車線(暫定2車線供用中)  下部鉄道 未供用  耐震設計強度 マグニチュード8クラス〕


 




   * 鳴門海峡のうずしお(鳴門海峡)



   

   鳴門海峡のうずしおは、約6時間毎に起こる潮の干満によって生じる現象で潮が高い海から低い海へ流れる時、うず巻く激流となり、大潮時には潮流時速20q、うずの大きさ30mに達することもあります。(世界遺産登録を目指しています。)







   * 烏帽子岩(鳴門海峡)」



   

   伝承によれば、慶長5年、当時の浦長桐原刑部は豊臣秀頼から鳴門崎の石を出せとの命を受けたが、漁業に支障が出るので断ったため、中山峠で磔刑にされた。
   このおかげで、烏帽子岩他の鳴門海峡の貴重な石が、現在も、残っています。







4. 携行絵図等
(1) 味地草(安政4年小西友直他刊)付図 3点
   ・海襌莽之図
   ・刈藻島之図
   ・自行者嶽遠望之図
(2) 福良字限大図(集合図) 
(3) 門崎周辺地形図(南あわじ市管内図1/約14,000)
(4) 道の駅うずしお概要書




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福良の風習〜一昔前の伝統的なものを中心に



徳 田 壽 春

文化とは、

  日常、これほど目にしたり、口にする言葉はない。 戦後、いち早く使われた言葉は文化国家の建設であった。 その後、住宅を始めあらゆる分野に文化と言う文字や言葉が使われた。 これは人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。
  社会組織、地域社会、血縁組織などがそれぞれの固有の文化を持つ。

  まとめてみれば
1.人間の生活様式の全体。
2.人間が自らの手で築き上げてきた有形、無形の全体。
3.民族、地域、社会の固有の文化が存在して、学習によって、或いは相互の交流が発展させてきたもの。

  例えば、衣食住・技術・学問・芸術・道徳・宗教とあらゆる面に及んでいる。 そして、これらが作り出される背景として、自然条件、当時の政治の動向に左右されることが多い。



●風習とは、

  社会が古くから受け継いできたことやものを指し、それを良しとしていることで、常識として扱われることも多い。身近には、あいさつ、中元、歳暮、おみやげなどが挙げられる。

  習慣とは、個人的な行動様式で広く、様式化されていないことやもの。 これが共同体で使われ、様式が均質化されると風習となることもある。

*人の生涯を通しての風習

《誕生》
  岩田帯を祝うには戌の日の戌の刻がよいとされる。 親戚、近所、知り合いへ「ちょぼ汁」が配られる。 「ちょぼ汁」は味噌、ずいき(里芋の茎を乾燥したもの)、ささげ、餅(米粉を小さく丸めた団子)を入れる。 これは栄養があって、妊婦のつわりなどを軽くし、安産や母乳の出に繋がると言われる。

  誕生後は、身内で慎ましくお祝いをするが、外部には忌が開けるまで祝をしない。これを葬儀の忌とは別に「血の忌」と言う。

  33日が過ぎれば、社会構成の一員として、「氏神参り」を行う。 こどもには特別に設らわれた晴れ着を着せて八幡神社に詣でる。 こどもに「ぶにを付ける。」とよく言われるが、「ぶに」とは運のことで、子どもの生涯の幸運を願い望む親心の表れである。

 
 《婚》
  婚礼は婚家で行うのが普通であった。 披露宴も同じく婚家で行っていた。 衣装見せは、福良や、周辺の地域でのみあったようであるが、これは淡路人形芝居で行われていた「衣装山」の模倣とも言われる。


《男子20歳》
  敗戦までは、男子20歳の徴兵検査が一区切りを示す大きな節目であった。 住吉神社の夏祭りのお神輿を担ぐこと、これは現在も続いている。


《男子初老》
  男子42歳は大厄とも言われ、福良では親戚、友人、近所の人たちが祝いに米俵を家の入口に積んでいた。 そのお返しか、お祝い返しを兼ねた大宴会を催し、数倍のお土産と記念品などを配る。 これまでの蓄えた金銭が厄年で全て使われたとも言われた。 徳島藩の一つの政治政策であったとも言われる。 特に、福良はこの行事がテレビに放映されたこともあった。


《女子33歳》 
  女子の厄年は、御崎神社のお神輿を担ぎ、町内を練り歩き、夜には同窓会が開かれる


《還暦60歳》
  正月と春祭りに、八幡神社に詣で、夜は同窓会が開かれる。


《葬》 
  現在では、葬儀屋と言われる専門的にすべての葬式を依頼することが多い。 かつては、隣近所が中心となって、家族に代わって葬式を取り仕切ってくれた。 これも亡くなった方の家で行うのが通常であった。

  葬式の行列(そうれん)は福良の町を白木谷の火葬場まで、徒歩で列を組んで行った。 死者を乗せた車は、高台の法界塔を3回まわることが慣習であった。 明治初年に流行病によって大勢の死人が出て、「サンマ」が狭くなり、埋葬地がなくなり、大正3年7月から火葬となった。

  葬式から35日目には、お大師山で親戚近隣での「団子ころがし」をする。 これは西の谷の方へ、うしろ向きに投げる。

  49日目には喪明けで、法要をお寺で行う。 膳上げという盛大な宴会を催す。 客には帰りに親戚からの「茶の子」と言われる粗供養のみやげものが渡される。 お膳には必ず「おつぼ」と言われる甘い味噌汁が付く。 新仏の白木の位牌が塗りの金文字の位牌に代わり、仏壇に祀られ、それまで喪に服していた家族、親戚は通常の生活に戻る。


*年中行事の風習

《正月》
  新年を迎える正月は一年の大きな祭である。 先ず、正月の餅は、「つこつこ(臨時の餅つきプロ集団)」が家に来て餅をつく。 玄関に正月の神を迎える飾りをする。 門松は松を左右に雄松と雌松に分けて飾る。 また、玄関他に七五三縄(しめ縄)を張る。
 
  大晦日には若水を汲み、神棚に供え、若水で丸餅味噌仕立ての雑煮を炊く。 若水は岩川と慈眼寺、谷川町の井戸で汲んだ。 若水は川の汲み場、井戸の近くの家は元旦早朝、戸主が汲むことになっていた。 家族全員が雑煮を頂き、お節料理で祝いをした後は八幡神社に参るのが普通の家の慣習であった。

  二日は初風呂が開かれ、町内の銭湯に行くことが多く、一番早く行った者に重ね餅の大きい方がもらえ、二番は小さい方をもらった。


《八幡神社の大祭》 
  京都男山八幡宮に倣って、8月15日であったが、漁師が忙しい時期であり、11月15日に変更した。(いずれも旧暦)

  福良では、東は新暦を、西が旧暦を使っていた。 町全体が、新暦を使うようになり(国の方針)、12月15日が祭りの日となったが、後に、この日では正月にあまりにも近いので4月3日となった。 現在は、4月の第1日曜日となっている。

  昭和になって戦争が激しくなり、だんじりが不出となるが、紀元2600年の記念の年に出された。 それ以後、昭和20年12月15日に、近隣の地区に先駆けて福良のだんじりが出た。


《夏まつり》
  夏祭りが多いのが福良の特徴で、一番早いのが愛染さんに始まり、夜の町に夜店が並ぶ。

【伝統の福良の夜まつり】(日程は、本来の日)

6月30日 愛染さん 15日 秋葉さん
7月 2日 龍王宮さん 16日 柳谷の観音さん
4日 郷殿さん 17日 十七夜の聖観音さん
6日 祇園さん 20日 お大師さん
7日 行者さん 22日 お稲荷さん
8日 八日薬師さん 24日 天神さん
9日 金毘羅さん 30日 住吉さん(宵宮)
10日 戎さん 31日 住吉さん(本宮)
12日 十二薬師さん 8月10日 朝観音さん
14日 八幡さん
 
    

《盆》
  各家、特に初盆の家は、いろいろな盆迎えに多忙となる。 まず、初盆を行う家は、8月1日に「灯揚げ(いり豆)」を親類と近所に配る。 7日からは、棚経でお寺の檀家廻りが始まり、新仏の家の親類とご近所では、毎夕刻、お寺参りをする。 これは、13日まで続く。

  13日には、どの家でも「迎え(落ち着き)団子」を作り、ご先祖を迎える。 仏壇には、盆飾りとして細い竹竿に掛けソーメンとささげとひい、盆花としてミソハギ・千日紅・シキビなどが供えられ、供物として蓮や里芋の葉の上にきりまぜ(米、茄子、ひいなど)、イギス、煮物(高野豆腐、椎茸、南瓜、茄子、ひじき、油揚げなど)、ご飯、果物、干菓子、お茶湯におがらの箸が供えられる。

  15日の午前には、初盆の関係者は精霊の供養と施餓鬼法要にお寺に参り、晩には精霊流しをする。 
盆踊り(阿波踊り)も連を組み、13日から15日まで町内を練り歩いた。

  かつて、お盆以後は、福良では子供に海水浴が禁止されていた。

  大綱曳きは、かつては5月の男の節句に行われていたが、現在は盆の夏祭りの中に組み込まれて行われている。





福良の主な文化財

淡路人形浄瑠璃(国指定重要無形民俗文化財)
淡路人形浄瑠璃の人形、頭、道具(兵庫県指定有形民俗文化財)
福良八幡神社本殿(兵庫県指定文化財)
鳴門海峡、煙島、漣痕ほか

 



参考文献 
「南淡路の民俗(武田信一)」、「村落の歴史(武田清市)」、「福良むかしむかし(前田勝一)」、
「南淡町の民俗(南淡町教育委員会)」、「南淡町の文化財あれこれ(南淡町教育委員会)」




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福良学教室現地巡りの記録

・・・ 岡尾山新四国八十八ヶ所霊場巡りなど ・・・


日時:平成26年10月11日(土)9時集合
集合:福良小学校屋内運動場付近

《趣旨・目的》

  福良の古絵図等を片手に、福良湾の絶景を眺めながら楽しく歩き、先人の願いに想いを馳せ、福良の歴史と文化に触れ、福良を再発見しよう。



《行 程》

 福良小学校 9:15 → 福良不動講 9:20 → 原田地蔵 9:25 → 松竹梅不動 9:3  → 天理教福良分教会 9:40 → (うずしおライン) → 八十八ヶ所第一番 9:50 → ( 山道 ) → 下の展望台 10:20(休憩  → 上の展望台 10:45 → 御嶽神社10:55 (簡易トイレ有休憩)→  大師庵11:05 (簡易トイレ有) → 辻本夫妻記念句碑11:15 → 八十八ヶ所第88番11:25 → 岡の原公園11:30 → 岡の原地蔵11:45 → (うずしおライン) → 福良小学校 12:00  



《訪問箇所の説明》

福良不動講
 明治43年、内海むめの氏が創設。 三原各地に不動講信者がおり、近年まで、1月、5月、9月のお不動さんの縁日(28日)には餅まきが行われ賑わった。





原田地蔵
 福良には十数ヶ所の地蔵祠堂があるが、その内のひとつ。 原田は原田川の肥沃な堆積土を利用して耕作が行われ、田畑が広がっていた。        (福良浦分間絵図参照)

 「(原田は)市坊の北の惣名にして八幡社の浜より西は行邸の浜 北の頂嶺は伊加利村境に至る 幽谷の水 巽(たつみ:南東)に流れて 納屋町備前町の間より海に入 是を称して原田川と云」(味地草)

○御詠歌「六道を 能化の地蔵 大菩薩 導きたもう 今日もうれしや」





松竹梅不動
 原田川に沿って上流に向かうと、川道の突当りに祠がある。 松竹梅不動尊である。 松竹梅は吉祥の象徴であり、お参りすると吉祥を授かると云われている。 八十八ヶ所の登り口にも同作者が彫ったと思われる不動尊が祀られています。





天理教福良分教会
 明治29年に創設。 江戸末期に天理教、黒住教、金光教の三神道が立教するが、淡路でも昭和初頭にかけて活発な活動を行った。 福良にも各神道の教会が建設された。



 

岡尾山の新四国八十八ヶ所霊場
 天保8年(1837)、飢饉に加えコレラが流行し、福良では人口約3,300人の内、約1,300人が死亡したといわれる。 その疫病犠牲者の供養のため、新四国八十八ヶ所霊場石碑が福良の町内各辻に建てられた。 その後、これらの石碑は明治8年に岡尾山に移され祀られた。
 
 旧正御影供(お大師さんの入定の日。旧暦3月21日)には、近年まで各石碑の施主家が参拝者にお接待をしていた。


○第一番に設置された「霊場世話人芳名」石碑に記載の事項
・天保九年・・当浦中山鳥取間新四国八十八ヶ所
・明治八年・・当山集祭 
・大正五年大師増設 
・大正十二年・・奥ノ院建立
・昭和十五年・・参道大改修芳名碑建立





団子ころがし
 淡路島では、亡くなって35日目ごなぬか(五七日)に、近隣の高山で「団子ころがし」をする。 これは、山中にさまよう餓鬼などが、供物のおだんごを食べている間に死者の霊が無事来世へ行けるようにということであるが、山の生物に食べ物を回向(自己の善行の功徳を他者に振り向けること)する意味もある。
 以前は岡尾山八十八ヶ所の十番札所で行っていたが、険しい山道であることから、航空灯台への道が整備されるに及んで、岡尾山の見晴らし台で行われるようになった。





岡尾山の展望台
 上下2ヵ所の展望台があるが、下の展望台には七福神石像や休憩所(初音亭)が造られ、岡尾山を登る人々に憩いを与えている。

 上の展望台には、魚籃観音・役の行者等が祀られている。 魚籃観音の前では毎年秋に漁業組合が主催して、漁の大漁と安全を祈願する法要が営まれる。
 「団子ころがし」もこの場所で行われる。





御嶽神社
 当地には、鳴門東講、鳴門講、福寿講の御嶽講があるが、昭和元年に木曾御嶽山の霊神を勧請してここに奉安したという。 昭和54年には現在の拝殿に改修された。





大師堂
 大正5年、弘法大師石像が安置され、大正12年には現在の大師堂が新築された。 昭和40年代まで斉藤台洲と云う庵坊がいた。

○御詠歌「ありがたや 知らず知らずに 奥の院 導きたまえ 久しかるらん」





航空保安無線施設(淡路VORDME)
 関西空港開港(平成6年)に伴い、岡尾山山頂に設置された。 これに伴い、うずしおラインから山頂の施設まで、航空局所管の管理用道路(市道)として、改良舗装がなされた。





松本嘉四郎碑
 「松本嘉四郎氏は 安政三年(1856)に生まれ 福良中山に住み 宮総代 町議会議員など多くの役職を勤めた人である  明治末年 伝染病が流行した折 衛生区長であった氏は 旧来の土葬の弊を思い 私費を投じて十軒家に火葬場を建設した 大正三年七月である  同施設の一切の権益を寄贈された旧福良町は その事実と積年の功労を讃えるため 施設内に碑を建てた  今般 火葬場取り壊し工事の完成に伴い 碑を現在地に移築して顕彰する              平成三年三月    南淡町 」





辻本夫妻記念句碑
 戦後、福良を始め全島の社会活動・学校教育・文化活動に尽力した、辻本嘉三郎・いさ子夫妻の功績を記念した句碑。               (平成6年7月 句碑建立発起人会 建立)
   「生涯を 学べば老いも 青春期」   嘉三郎
   「さつき花 見ごろとなりて 心そえ」 いさ子





長舩 武顕彰碑
 福良ならびに旧南淡町町内会の連合会長等を歴任し、岡尾山の公園化に貢献した長舩武翁の顕彰碑。
   ( 平成14年10月 福良町づくり推進協議会 建立)





岡の原
 現在はバイパスで分断されているが、藤井戸や真光寺北側に続く高陵地をいう。
(福良浦分間絵図参照)
「八幡社乾(いぬい:北西)の山腹を云」(味地草)



 
                    

岡之城跡
 室町時代、岡の原には岡之城があり、福良氏が城主であったという。
 弦島城主の福良氏とは別氏である。

 「桐原氏は、福良の岡ノ原に岡之城を構えた土師左近典忠之の末裔で、武士を離れたのち、十一屋という屋号の商人となった。・・・岡之城の城主は、福良式部寛治の子息の森崎中豊(桐原刑部)であったとも言われる。・・・加藤氏の転封を機に、岡之城を廃城。 桐原刑部中豊は加藤家を辞職し、福良浦長になる。」(福良学教室 23年度第3回 郷土史:福良の中世から近世にかけて 徳田壽春)





岡の原公園
 岡の原はもともと藩有林であったが、明治になり町有財産となり、現在福良財産区が管理している。 戦後、ホテルや墓地公園の計画もあり、今のような広場が造られた。 この地を住民のふれあいと憩いの場にしようと、町中の各団体が協力して公園化を進めている。





岡尾山地蔵堂
 岡の原中腹に地蔵庵があって、昭和初期まで庵主が住んでいた。
 味地草には「・・・安永の頃(1772〜)此浜の岸懸より古碑二石を掘出し 利瑞ありて其頃近里の詣人多し・・・」とある。






《現地巡り携行図》

1.原田、岡尾山周辺図 

2.岡尾山新四国八十八ヵ所霊場所在ルート図

3.福良字限大図

4.福良の古絵図(部分抜粋版) 


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やぶ萬旅館の今昔


(有)やぶ萬旅館 榎本紘一良

1.旅館開業の経緯


初代当時の「やぶ萬


                            

 やぶ萬旅館の創業は、江戸時代末期の文久3年(1863年)、藪 萬作が21歳で始めた船宿でした。「やぶ萬」という屋号も、初代の姓の「藪」と名の「萬」を採ったものから来ております。

 初代は藪 所左衛門の長男、萬作(1841-1914)。所左衛門は乾物商(回漕業)を先代より営み、萬作も手伝っておりました。当時鳴門に渡るために潮待ちし、福良の町に立ち寄る方が大勢いたとか。また江戸時代には、福良の八幡神社が「海からしか参られない神社」として観光名所であったとも。そんな福良港に近かったことから、船に乗り降りする武士・町人を見て、「旅館をやればかならず儲かる」と考えたとのことでした。

 商売は繁盛するものの、生来バカ正直な萬作は帳場で預かった銭箱を返す時に、「もっと多かった。」と難くせをつけられてはよく大金を騙し取られ、借金の返済に四苦八苦していたといいます。その借金返済が終わり、旅館業が軌道にのった明治35年、萬作の四女あさ(当時13歳/後の2代目女将)がランプを付けて捨てたマッチの火が近くにあった油に燃え移り、旅館は全焼しました。萬作は旅館再建に奔走するが、再建不能とみた萬作の息子達(長男から三男まで)は島外へ。残された娘たち、とくに長女きよと四女あさが死に物狂いで働き、1年後の明治36年に粗末ながら旅館を再建し、再出発となりました。
 


藪家系図

  萬作の四女あさは、明治43年、21歳で榎本豊吉と結婚。榎本姓を名乗り2代目女将となります。大正5年には近くの三木屋という料理屋を買収して改築、増築を重ね、「やぶ萬」の土台を作りました。





2.時代別利用の実態・変遷


昭和初期のやぶ萬(写真入り絵葉書より


  

  江戸の終わりに、主に潮待ちの船宿として始まった「やぶ萬」は、昭和初期まで、やはり鳴門行き道中の宿屋としてお客様を迎えておりました。

  昭和の半ば、太平洋戦争が始まると、鳴門要塞へ大勢の軍人さんが来られ、「やぶ萬」も軍人さんの宿屋・食事処としても使われるようになりました。



昭和24年ごろのやぶ萬裏

  

  戦後になると、鳴門の観潮船観光が始まり、当館も観光客を迎える旅館へ。観光客が増えるとともに、当館も昭和25年〜38年までに増・改築が行われました。

  (昭和24年ごろには昭和初期の頃にはなかった広間も増築されております。写真右上部分)





昭和20年代の観潮船案内(表) 昭和20年代の観潮船案内(裏)


 

 当時の観潮船案内を見ると、鳴門の渦潮の大きさや潮見の時期、鳴門小唄まで載せております。さらに「御宿泊料二円以上/御弁当三十五銭以上、団体御観潮船は特に御相談応じ候」など、料金・文言に時代を感じます。

  観潮船や人形浄瑠璃、水仙郷など、今につながる淡路島への観光が目的のお客様が増えてきました。
  ところが、当館は昭和40年に漏電火災が発生し、玄関近くの5室を残してまたもや焼失しました。



昭和41年頃のやぶ萬

 

   昭和40年の漏電火災の後、昭和41年鉄筋3階建てに建て直すことに。この時代には、会社の慰安旅行などの団体のお客様の最盛期でした。団体旅行の宴会が賑やかに行われて、建て直す際には宴会場を増やさねばならないほどでした。同時に客室を増やすための増改築もし、昭和47年に現在の鉄筋4階建ての「やぶ萬」へと完成しました。


  この当時のお料理は、鯛を中心に目玉は「宝楽焼」。この「宝楽焼」は、初代が漁師の浜料理にヒントを得て、屋内(客室)で食せるように始めたもの。当館の歴代の料理人が改良を重ねて現在の姿になりました。

  夏の鱧料理もまだ前面には出てなく、冬もオコゼ・ヒラメの料理が主でした。そこで、「観潮船や人形浄瑠璃、水仙郷などの観光だけでなく、お料理でもお客様に喜んでもらおう、旅の思い出に残るお料理を!」と、三代目女将春子が郷土料理でもあった「鯛そうめん」から、鯛の素揚げを蒸し、手延べ素麺をだし汁で煮立てて、大杯に盛る「鯛めん」を考案、現在にも続く当館の名物料理となりました。

  現在は20年前より始まった「福良産の3年とらふぐ」や夏の鱧料理もようやく有名になり、淡路島の春は、「鯛」。夏は「鱧」。秋は「もみじ鯛」。冬は「3年とらふぐ」と目玉の料理が定着してまいりました。
  当館も季節ごとの旬の素材をいかした料理旅館へ。


昭和40年代パンフレットより    昭和40年代パンフレットより








現在のパンフレット  昭和40年代パンフレットより 
                  


3.現在の施設利用実態

  昭和40年代〜50年代は、会社の慰安旅行などの団体旅行で、旅行会社からのご予約が主流でしたが、平成に入り個人やご家族旅行のお客様が増えてまいりました。それに加えて、ここ10年程はお客様よりインターネットで直接ご予約なさる方が、ほぼ7〜8割程度になりました。

  お客様がネットを使い行きたい所の情報を集めて旅行を計画し、宿もお決めになるようになり、私共の旅館もネットのご予約に力をそそいで行かなければならなくなって参りました。従来の旅行会社に加え、旅行大手サイト「じゃらん」や「楽天トラベル」などに参画しますと、サイト内のクチコミ(お客様の声)で、お料理・接客・サービス・部屋・お風呂などをそれぞれ細かく評価されるようになり、お客様もそのクチコミ評を大変参考にされているようです。

  当館も施設のメンテナンスはしつつも、昭和47年の改築から外観など変わらないため、今では昭和のお宿と古臭く感じられるか、懐かしく感じられるか、お客様の印象も別れております。

  そんな中、14年程前から大浴場を潮崎温泉にできた事や、淡路島の四季の食材に拘り料理に特化してきた事、今では少数派の部屋食/別個室での食事出しを続けてきた事が今のお客様にも喜ばれ、その後もリピーターとなって「やぶ萬」を応援して下さっています。





◇◆【じゃらんクチコミ】より抜粋◇◆

   ロックマンさん 男性 / 30代
投稿日:2014/09/22 【2014年09月宿泊 恋人旅行】

・食事良し&温泉良し。
・今回は急に休みがとれたので、彼女とプチ旅行に来ました。
・宿に到着し、女将さんが玄関先まで出迎えてくれていました。食事の時にも挨拶に来てくれました。
 非常に気持ち良かったです。
・食事は楽しみにしていた通りに満足しました。温泉も大満足で、夜と朝で3回入浴しました。
 建物は見た目(外観)は年期が入っていますが、部屋は綺麗でした。
・やぶ萬さんは見た目(外観)じゃなくて、中身(料理と温泉と接客)で大満足出来る良い宿でした。
 また、近いうちに来たいです。 

◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆

 こだわりの宿 やぶ萬のクチコミ・評判情報
 クチコミ総合 4.4 (「普通=3.0」が評価時の基準です)

部屋 風呂 料理(朝食) 料理(夕食) 接客 清潔感
3.8 4.5 4.8 4.6 3.7



4.有名人の利用実績−1

「鳴門見て 早き泊りや 桜鯛」
の句を詠んだ岩木躑躅さんも当館にご宿泊
いただき、記念に色紙を書いて下さいました。




 ←
当時の私です
宝塚歌劇団の方との記念撮影

 

 昭和24年ごろには、宝塚歌劇団の方もご宿泊されました。その当時の島内の人とは明らかに違う華やかな雰囲気の方々であったと記憶しております。 

  同じ頃、春日野部屋の栃錦もお泊りになり、小学生の私はサインを頼みましたところ
部屋まで呼ばれ、ひたすら墨をするよう言いつけられ、その一生懸命にすった墨で「努力」と色紙に書いて頂いた思い出もございます。





4..有名人の利用実績−2


夏目雅子さん

郷ひろみさん
当館3階大広間にて

   
 

   昭和58年には淡路島出身の阿久悠の自伝的小説『瀬戸内少年野球団』の映画撮影のため、監督やスタッフさん達、出演者の夏目雅子さん・郷ひろみさん・佐倉しおりさん・岩下志麻さん、少年役の皆さんなどがご宿泊なさいました。

  夏目さんは、ご覧のとおりとっても明るくよく笑い、その時は髪も短くて活発な女優さんといった印象でしたが、朝撮影に出発なさる時には髪もまとめ、見違えるよう上手にセットされ、お淑やかな「駒子先生」となっておられたのには、さすが女優さんだなと感心いたしました。また毎晩11時には、定期便のように当時婚約者であった伊集院静さんからお電話がかかり、お取次ぎしていたことも思い出されます。

  上記写真は、スタッフとも大変仲の良かった夏目さんが3階広間にて宴会をなさっていた時の記念写真です。画像が悪いため周りを除いておりますが、総勢20〜30名の大宴会でした。夏目さんは「さのさ」を上手な替え歌で披露して周りを盛り上げておりました。

  出演者の方はどの方も大変きさくな方で、ほかのお客様との記念写真やサインにも気軽に応じられていらっしゃる姿をお見かけいたしました。

  その中には、当時はまだ新人俳優の若い渡辺謙さんもいらっしゃいました。バスで一人で来られて、撮影が終わるとまた一人でバスで帰られていた渡辺謙さんやスッタフさんなど(写真中央の方は後に「のぼうの城」のチーフディレクターに)この時にはまだ駆け出しだとされた方が、その後目覚ましく活躍された事も、嬉しい驚きでございます。

  淡路島を舞台にした映画撮影という華やかで、活気のある現場を陰ながら支える手助けの一つとなる機会を得たことを大変ありがたく思っております。



5.今後の「やぶ萬

  団体客から個人・家族旅行に移り替わり、加えて昔と違って、地元の宴会やお祝い事(披露宴)の宴会もなくなり、厳しい時代となっております。
  
しかしながら、ここ淡路島は四季折々の美味しい食材や、鳴門観潮などの豊かな自然、、500年の歴史を誇る淡路人形浄瑠璃など、魅力が溢れる島でございます。国内の方にもこの淡路島の魅力を堪能していただくことはもちろん、これからは海外の方にもお越し頂けるように情報を発信して、淡路島の「ファン」を増やす努力をして参りたいと思います。

  この日本の旅館というものは、奈良時代の布施屋が成り立ちにあり、日本独自のものでございます。「おもてなし」の心もここに原点があるのではないでしょうか。

  また、和食が世界遺産になり、世界に注目されております。外国の方は、日本の旅館も日本を代表する日本文化の一つと考えており、お泊りになりたい方も沢山いらっしゃるとお伺いしております。

  そういったことを踏まえ、より当館の良さに磨きをかけて、商売を続けて行きたいと思っております。







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福良財産区設立60年を迎えて




福良財産区管理会長 佐藤富夫

はじめに
  時代の要請を受け昭和30年4月29日、南淡町の誕生と同時に旧福良町から承継された財産の管理組織として福良財産区が産声を上げてからここに半世紀を超え、60年を迎えようとしています。 この記念すべき年にあたり、福良の誇る「福良財産区の真の姿」を地区内外の方に、知っていただきたく何か資料をと思い立ちました。 が、昭和62年6月1日発行の「福良財産区30年のあゆみ(30周年記念誌)」が既にあり、かつての福良財産区の経緯と歴史がそこに網羅されており、これを振り返りながらご紹介させていただき、目覚ましい戦後復興期や華々しい高度経済成長期と落ち着いた安定経済成長下での着実な福良財産区の歩みもまた、正しく理解していただき、今後の財産区運営に対する真摯なご意見も頂戴いたしたいと考え、本資料の作成となりました。
 

  そもそも「財産区」とは何か? 「財産区制度」の概論を述べることから始めます。 
  財産区は、地方自治法に規定された「地方公共団体」であります。 都道府県や市町村は「普通地方公共団体」と呼ばれていますが、財産区は東京都の特別区(23区)、地方公共団体の組合(旧三原郡広域事務組合など)や地方開発事業団(旧三原郡開発事業団等)などと同様に、れっきとした「特別地方公共団体」に位置付けされています。 従って、地方自治法によって、その運営も厳しく規定されており、例えば財産の処分にあたっても、
@地域全体の公共の福祉に反しない。
A市町村との一体性を保たなければならない。
B知事の認可を得なければならない。
C一定以上の財産処分等については、市町村議会の承認が必要等の制約があります。 
  
  次に、管理委員も地方公務員法が適用され、言わば、「非常勤特別職公務員」の身分となっています。 当然のこととして、就任にあたっても南あわじ市議会の同意を得て、市長の任命を受けなければならないこととなっています。 このように、財産区や管理委員は「地方自治法」や「地方公務員法」の定めるところによって厳しくコントロールされています。

  では、福良財産区の設立(昭和30年4月29日)以来の目覚ましい財産区の活躍の歴史を、これを支えた管理委員の業績の数々を「福良財産区30年の歩み(30周年記念誌)」を通して、辿ることといたします。 掲載内容については、正確を期す為、できるだけ発行当時のままの記述をしていますので、よろしくご考察をいただきますようお願いいたします。 なお、「福良財産区30周年記念誌」発行(昭和62年6月1日)以降の大きな開発・処分は、昭和63年度頃の関西空港建設関連(当時は、運輸省大阪航空局所管)で淡路航空保安無線施設整備事業(岡尾山山頂付近)の受け入れがありますが、「福良財産区30年のあゆみ(30周年記念誌)」発行後のことですので未掲載となっており、本資料からは漏れていますので、よろしくご賢察いただきますようお願いいたします。



財産区の制度と福良財産区の成立
 明治維新以来、地方行政制度が確立するまで20余年を要し、それまでの公共財産(土地及び公の施設)の主権者は度々変転した。その間、山林、原野等の所有者は個人の他に国有地・市町村有地に分かれていった。明治22年施行の市制町村制により、三原郡では52ヶ村が22ヶ村に統合され、旧村の公有山林等は、部落有となったものや、新村有となったもの等、必ずしも一致していない。

 財産区制度は、町村合併に際し、旧町村が所有していた山林原野等の財産や公の施設を一様に新町村に引き継ぐことが著しく不公平を生じ、住民の強い反対がある為、この町村合併を促進するためやむなく合併後も旧町村単位で従来の財産を所有する権利を認められたものである。従って、財産区は、町村とは別個の独立した法人であり、特別地方公共団体であるが、その権能は財産又は公の施設の管理についてのみ認められている。当然のこととして、財産区は新しく財産を取得することは許されず、その管理する財産が消滅するときは、解散されるものである。

 昭和30年の町村合併促進法による町村合併が行なわれた際、合併予定の町村の協議により旧町村単位で財産区を設置することができるように、地方自治法の改正が行なわれた。

 当時福良町が所有していた役場・小中学校の土地施設等の行政財産は、当然のこととして南淡町に移管されたが、山林原野等は合併6ヶ町村の協議により、地方自治法の定めに従って福良財産区の設立が認可され、以来福良財産区有となった。(別添「合併議決書」参照)次いで、福良財産区管理会設置条例(別添「福良財産区管理会設置条例」参照)により、管理者(南淡町長)から管理会(管理委員7名にて構成)が管理・運営の事務の委任を受けて、これを担当し、議決機関は南淡町議会があたることとなったのである。

 福良財産区の所有地は、設立当時から一筆毎に明記されているが、以来30年間に若干の変遷を経て現在別記財産一覧表のとおりとなっている。また、財産の処分や財産の運用収益によって福良財産区特別会計を設定し、管理費や福良地区公共事業の地元負担金を賄っている。

 管理委員の選出方法は、当初25人の選挙会員による選挙によっていたが、第5期(昭和46年7月就任)より100人の選挙会員に改正され、第9期(昭和62年7月就任)からは福良町内会連合会の推せんにより選出することとなっている。

  淡路に於ける財産区の設置の状況は、南淡町内の福良・北阿万・阿万・沼島のほか広田・納鮎屋・由良・堺が主なもので、その他は前述の経過を経て、部落有又は個人の集合体の所有となっている。

 一般に、財産区有地は山林が多い。福良の山は奥が浅く、且つ財産区有林は山項部に多い為、良材の生育には適していないが、古くより仁尾・刈藻・原田・岩川に保全林・水源涵養林の造成に力を傾注してきた。財産区設立当時は立木を伐採して塩田跡地の埋立経費等に充当してきた経緯もあったが、近年の木材価値の低下、松くい虫禍等によって、造林事業が思うように進まないのが現状である。



福良町有財産と財産区有財産の沿革
 明治の初期、三原郡は139ヶ浦村に分かれ、明治10年頃は52ヶ村に、又明治22年の市制町村制施行時は21ヶ町村となり、爾来60余年続いてきたが、昭和の大合併により、4ヶ町に統合された。

 福良は藩制以来福良浦一本で、南淡町発足まで単独町として歩んできた。その間、先人達の努力により、向谷の開田、下町の整備、築地の埋立等が行なわれ、多くの財産を蓄積、増強してきたもので、今日の地域社会の基礎を形成している。

 福良財産区が先人より引継がれた財産の沿革、推移を述べると、次のとおりになる。


1.福良背後の山林
  福良は南辺寺山より苅藻、門崎に到るまで背梁山脈が連なり、高くはないが比較的急峻で、低地に近接している。これらの山林は古来民有林が多いが、一部が藩有林であった。この藩有林は江戸期より、当浦の数氏が管理してきたが、明治初期の廃藩置県で新政府(名東県井上大参事)の方針によりこれを民間に払下げることとなり、上記の管理人に払下げが内定していた。

  これを聞いた当浦在住の有志7人が、一般浦人の入会共同山林であると主張して、福良浦所有を訴えて出た。当時の強大な国権の下、多方面からの圧迫にも屈せず東奔西走、裁判にまで訴えて、初志を貫徹し、遂にその大部分(約70町歩と伝えられる)を福良浦所有化に成功したという経緯がある。これを記念して、明治43年その功労碑が原田浄水場に建立されている。(別添「旧徳島藩からの山林払下げに関する功労記念碑文」参照)
  これらの山林のほか、明治以来福良町が取得した山林も多い。




2.旧陸軍々用地
(a)鳩真奥の山林
  鳩真奥の山林は元陸軍用地に買収されていたようである。陸軍はこれを廃止し、 大蔵省所管となっていたものを、昭和2年11月頃福良町が払下げを申請、許可されて町有地となったもので、筆数9、総地積56,641u(台帳)である。

  昭和37年、南淡路国民休暇村誘致に際し、その大部分を南淡町の名義にして貸付け、今日に到っている。

(b)鳴門要塞跡地
  門崎・笹山・行者・柿ヶ原の砲台用地、洲崎・煙島・蛇のヒレの航路用地、仁尾の兵舎用地は、明治29年頃陸軍用地として買収され、陸軍はここに堅固な砲台を築いていたが、終戦後砲台は爆破、放置されていたものである。

  福良町(町長坂東琢郎氏)は、これの払下げを申請し、先願者琴井谷氏等との迂余曲折を経て許可を得た。仁尾・洲崎・煙島・行者・蛇のヒレは福良町の単独所有となり、門崎・笹山・柿ヶ原及び連絡軍道敷地は隣村阿那賀村との町村界によってそれぞれ権利を取得することとなった。

  しかし、永年軍用地として謎のべ−ルに包まれていた為、元の地形が変わっており、町村界を定める基準が定まらず、又登記事務手続も困難を極め、これらの業務は南淡町成立後まで長引いたものである。両町の境界設定は柿ヶ原砲塁については、昭和31年3月29日阿那賀村長と福良財産区との協議により決定、その他については、昭和41年11月15日福良財産区、南淡町、西淡町が協議して決定調印した。

  福良財産区は、鳥取海岸経由の県道の造成には用地を無償提供し、又南淡路有料道路の築造(昭和44年開通)等には用地を有償提供し(代価約400万円)、門崎方面の開発に協力して来た。この頃門崎先端地区は、南淡・西淡両町の共同管理すること等について両町の協議が成立、昭和45年4月に両町で、淡路鳴門岬公園開発事務組合立鳴門みさき荘を建設、組合で直営し、園地造成は県で施工、又笹山レストハウスは県開発公社で建設、福良財産区が受託、経営してきた。

  昭和51年大鳴門架橋、縦貫道建設(昭和60年6月開通)に際しては、橋脚(主塔中瀬)高架橋、笹山陸上部分の用地の大部分は当財産区より本四架橋公団に売却した。その売却代金は、既に決定していた通称笹山方式と呼ばれる協定(別添「笹山方式覚書」参照)に基づき、これを南淡町と福良財産区で分割、町2億円、財産区1億8,126万円をそれぞれ取得したものである。

  昭和59年大鳴門橋記念館が県資金により建築するに際し、柿ヶ原堡塁跡地及び軍道跡地を提供、同地区の西淡町提供分と併せて新園地及び進入道路とし、その造成費及び附帯工事費は、南淡町、西淡町で分担して拠出し、昭和60年4月に完成、鳴門みさき荘と併せて、両町事務組合で経営に当り、好評を得ている。尚この造成費には架橋・縦貫道用地売却代金(南淡町取得分)2億円のうち、5,000万円が充当されている。

  又、うずしおライン建設の際建築していた笹山レストハウスはこの時一担撤去し、周辺の駐車場拡張後、その地にパーラーうずしおを県道路公社により再建し、その運営は福良財産区が受託経営に当っている。

  この旧軍用地は、払下げ以来40年、当時期待していたとおり、立派な道路も整備され、うずしおラインは近く無料化されることとなっている。自然公園法の制約を受けながら、今日迄県、町、財産区が一体となって努力し、公共の力で、観光、道路開発が進行し、南淡路随一の観光地として脚光を浴び、福良地区のためにも有効に活用されてきた。今後この方面の民間活力に期待するものが大きい。


3.旧塩田跡地
  淡路交通KKの鉄道線路より南側向谷川迄の旧塩田跡地は、昭和18年4月、昭和造船会社が戦時木造船建造のため、前地主坂東氏より買収していたが、戦後、福良町(町長泊平吉氏)が地権者11氏より、昭和28年6月及び12月に買収取得し、逐次埋立ててきたが、昭和30年4月より財産区がこれを継承し、その後財産区で埋立て、宅地化したもので、その埋立経費の捻出には初期の財産区が木材の売却益を充当する等苦心してきたものである。

  この土地を活用してきた概略は次のとおりである。
(a)昭和37年南淡路国民休暇村誘致に際し、真奥の財産区有山林を休暇村用地に提供 したほか、休暇村予定地内の民有地を買収するに当り、代替地として、この埋立地  の一部(約650坪)を提供した。

(b)南淡路有料道路(昭和44年開通)が県道路公社によって建設されるに際し、その費用の−部負担するため、この埋立地の一部(保健所の南側及び県道の東側等)を売却してこれに充当した。

(c)この土地を市街化するため町道用地(一部はその後県道阿万福良線に昇格)に提供してきた。

(d)昭和45年三原保健所移転改築に際し、その用地約500坪を昭和43年2月町に提供、その代替として二丁目の旧保健所跡地を財産区管理地とし、ここに有料駐車場を建設した。

(e)昭和48年南淡町が役場裏駐車場拡張に際し、旧淡交鉄道線路南側に於て約207坪を南淡町に提供した。

(f)昭和54年度に南側中央公民館建設に際し、その用地約537坪を町に提供した。

(g)昭和54年度に国道28号線福良バイパス建設に際し、その用地(約606坪、代価・建物補償費共1億7,011万円、及び32坪1,272万円、計1億8,283万円)を建設省に有償売却した。

(h)昭和41年度南淡町商工会が現公民館の南に建設されていた鳴門観光レストハウス内に事務所を持っていたが、新しく建築するに際し、公民館西の財産区有地約145坪を有償貸与した。

(i)昭和40年頃より、一般に自動車が急速に普及したので、財産区では塩田跡地及び二丁目の保健所跡地に、昭和44年以来逐年有料駐車場を建設し、昭和61年度現在で収容能力192台、使用料収入年約1,200万円を得ている。

  この土地は福良地区の東玄関口であり、今後その中心街を形成することが予想され、立地条件としては申し分がなく、今迄に有効に活用されてきた。顧みて戦後の悪条件の中で、福良町で買収取得し、今日の物心両面の発展の基礎を築いたものと思うとき、当時の役員諸士の先見の明に敬服させられる。


4.南淡町役場庁舎敷地
  昭和30年南淡町合併による新庁舎誘致のため、当時国道と鉄道線路との間の旧塩田跡地を地主坂東琢郎氏の好意により、福良町で購入、埋立て造成して、南淡町へ提供したものである。その後鉄道が廃止された後、南淡町がその跡地を購入し、その南側に隣接した財産区有地207坪を提供、現在に到っている。従って、鉄道線路跡地を除いたほかは、福良財産区の主権下にある。


  以上、財産区が福良町より引継いだ土地の主なるものの沿革の概要で、南淡町と福良財産区管理会で協議処理に当ったものであるが、重大な案件の処理については、福良町内会連合会及び福良地区選出議員団と度重なる協議と調整をし、処理をしてきたものである。(別添「財産区地に関する町との協定書」参照)




議案 第18号
三原都南淡町・福良町及び沼島村の合併について

  

  地方自治法第7条の規定により、三原郡南淡町・福良町及び沼島村を廃し、その区域をもって新たに、南淡町を設置し、同時に三原郡南淡町・福良町及び沼島村の一切の財産(権利義務とも)は、南淡町に帰属する。但し別紙財産は財産区とするものとする。

昭和30年4月19日提出


兵庫県三原郡南淡町長職務代理者
                   福良町助役 松坂 八重吉



右 原 案 可 決



別紙(議案第18号)
種別 所在地 数量 所有者 運営方法
原田 乙1,204の1 008 福良町 管理会
 (以下59筆詳細省略) 









○南あわじ市福良財産区管理会設置条例
平成17年1月11日
                                 条例第182号

 (趣旨)
第1条 この条例は、地方自治法(昭和22年法律第67号)第296条の2第1項及び第296条の4第1項の規定に基づき、福良財産区管理会の設置、組織及び運営に関し必要な事項を定めるものとする。

 (設置及び組織)
第2条 福良財産区に福良財産区管理会(以下「管理会」という。)を置く。
2 管理会は、福良財産区管理委員(以下「委員」という。)7人をもって組織する。

 (委員の選任)
第3条 委員は、福良財産区の区域内に3箇月以上住所を有する者で、南あわじ市の議会の議員の被選挙権を有する者(以下「被選挙権を有する者」という。)のうちから福良地区町内会連合会の推薦により、市長が市の議会の同意を得て選任する。

 (失職及び資格の決定)
第4条 委員が被選挙権を失ったときは、その職を失う。委員が被選挙権を有するものであるかどうかは、管理会がこれを決定する。この場合においては、出席委員の3分の2以上の多数により、これを決定しなければならない。
2 前項の場合においては、委員は、第7条第2項の規定にかかわらず、その会議に出席して自己の資格について弁明することはできるが、決定に加わることはできない。

 (会長)
第5条 管理会に会長を置き、委員の互選により選任する。
2 会長は、管理会の会議を主宰し、管理会に関する事務を処理し、管理会を代表する。
3 会長に事故があるとき又は会長が欠けたときは、あらかじめ会長の指定する委員がその職務を代理する。

 (招集)
第6条 管理会は、会長が招集する。
2 2人以上の委員から管理会の招集の請求があるときは、会長は、これを招集しなければならない。

 (会議)
第7条 管理会は、4人以上の委員が出席しなければ会議を開くことができない。
2 会長及び委員は、自己又は父母、祖父母、配偶者、子、孫若しくは兄弟姉妹の一身上に関する事件については、その議事に参与することができない。ただし、管理会の同意を得たときは、会議に出席して発言することができる。
3 管理会の議事は、出席委員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、会長の決するところによる。
 (管理会への委任)
第8条 福良財産区の財産の管理又は処分は、南あわじ市長の委任を受け、管理会において処理するものとする。

 (報酬)
第9条 委員に支給する報酬の額は、別表のとおりとする。

 (費用弁償)
第10条 委員が公務のため旅行したときは、その旅行について、費用の弁償として旅費を支給する。
2 前項の規定により支給する旅費の額は、別表のとおりとする。

 (公務災害補償)
第11条 委員の公務災害補償については、南あわじ市非常勤の職員の公務災害補償等に関する条例(平成17年南あわじ市条例第41号)の規定を準用する。

 (議事運営の細目)
第12条 この条例に定めるもののほか、管理会の議事運営に関し必要な事項は、市の議会の議事運営の例による。
   附 則
 (施行期日)
1 この条例は、平成17年1月11日から施行する。
 (経過措置)
2 この条例の施行の目の前日までに、合併前の福良財産区管理会設置条例(昭和47年南淡町条例第14号)(以下「合併前の条例」という。)の規定によりなされた処分、手続その他の行為は、この条例の相当規定によりなされたものとみなす。
3 この条例の施行の際、現に合併前の条例の規定により選任されて いる委員は、この条例の規定により選任されたものとみなす。この場合において、委員の任期については、その者が合併前の条例の規定により選任された日から起算する。


別表(第9条、第10条関係)
区分 報 酬 管外出張費用弁償
委 員 月額 26,000円

南あわじ市職員の旅費に関する条例(平成17年南あわじ市条例第40号)
別表に掲げる旅費相当額                        











「笹山方式」覚書



覚書
  

  南淡町福良の門崎、笹山及び行者地区は、昭和38年8月12日門崎までを一筆、福良丙947の5番地として南淡町有地に登記し、町有地であることには間違いないが、福良財産区では「笹山は財産区に残してある」との申送りがあり、福良住民も財産区有であると信じているので、今後笹山方面からの収益及び土地代金等は、下記の両委員会でその使途を円満に協議し、福良地区公共事業に投入することを決議した。

  この覚書は、今後町と財産区との政争を避け、福良及び南淡町の円満な発展を目的として作成した。

  故に万事事前によく話合いをし、民意を尊重して開発を進めてゆくものである。
この覚書は議会の承認を得て効力を発する。





   昭和43年4月10日
南淡町議会門崎開発特別委員会
委員長  古池 権平 印

副委員長  稲山 寛一 印
福良財産区管理会
会長  泉  正三 印

南淡町長  森   勝 印








財産区有地に関する町との協定書

協 定 書
 南淡町(以下「甲」という。)と福良財産区(以下「乙」という。)との間で、その土地所有経緯から、特に疑義の生じやすい用地に関し、今後の紛争の解消を図り、甲、乙間の円満な連携を保つために下記の事項について協定する。

(柿ヶ原用地)
1.当該地(福良字大苅藻丙936−3)については、財産区設置の際には、乙の所有となっていたが、昭和38年8月12日に甲に名儀変更がなされている。
  今般、当該用地に淡路島うずしお館が建設されるに当り、甲乙双方でその経緯等の調査を行ったが、原因については不明確であった。
  しかし、甲は現在まで、乙が善良な管理をしていることを勘案し、今後も管理権は乙に所属することを認め、当該用地の開発等については、甲、乙協議の上推進するものとする。
 なお、当該細から生じた収益の使途については、甲、乙協議の上決定する。

(国民休暇村用地)
2.観光開発の拠点としての国民休暇村誘致につき用地及び代替地として財産区有地を町に提供した経緯を踏え、之が提供した用地から賃貸料等の収益が発生したときは、その使途について甲、乙協議の上決定する。

(旧保健所用地)
3.昭和45年、三原保健所が移転するに際し移転用地(新保健所用地)について、乙の所有する土地を甲(兵庫県)に使用させることを条件として、不用となった甲所有の旧保健所用地を乙が使用することを認める。
(南淡町庁舎用地、中央公民館用地及び児童公園用地)
4.乙はその使用権を認める

(その他)
5.前記4項目について、その利用状況等を変更するときは、甲、乙事前に協議の上決定するものとし、上記に定めのない福良地区内の町有地、福良産区有地の利用等についても機宜に応じて甲乙協議し、地域開発に寄与するよう努めるものとする。

この協定の成立を証するため、本書2通を作成し、甲、乙署名調印の上、各自1通を保有する。
  昭和59年3月7日

甲 南淡町長  江本 卓爾 印
   乙 福良財産区管理会
会長 鳩崎 省吾 印





(参考資料)
財産区承継財産一覧表
(↑クリック)


財産区承継財産一覧表の説明

1.昭和30年4月29日財産区の設立が議決された当時の所有財産は議決書によると60筆であったが、昭和62年4月1日現在では46筆である。これは字八反甲512番地関係で合筆分筆が行われたための減少である。


2.財産区有財産を登記の面から見ると、福良町当時に登記されたものは字八反甲を除いて42筆中18筆であり、昭和30年以降に登記されたものも僅かであった。管理会第八期(昭和58年7月以降)に到り大部分を整理登記し、現在全部登記済となった。


3.南淡町が合併成立当初福良町より福良財産区が承継すべき筈のところ、昭和38年9月27日前後に、南淡町が承継登記しているものは、元陸軍用地であった鳰真奥の山林(昭和2年頃福良町が取得登記)9筆がある。南淡町に登記と同日付で地目が公園に変更されたもの4筆、保安林3筆、山林2筆である。このうち大部分(7筆)は休暇村に提供されている。


4.昭和20年終戦により、旧陸軍要塞用地で払下げを受けたものの殆んどは財産区承継財産台帳に記入されておらず、柿ヶ原(1筆)は昭和27年1月21日福良町が大蔵省より払下登記されていたが、昭和38年8月23日南淡町が承継している。


5.上記3,4については、別記のとおり昭和43年4月10日及び59年3月7日付で、町当局と財産区との間で、覚書或いは協定書を作成調印している。





 
(参考資料)
福良財産区有土地所在図

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福良財産区特別会計歳入歳出状況



<福良財産区特別会計歳入歳出表>


(単位:千円) 
年度 歳入 総額 歳出 総額 差引額
(翌年度繰越)
備考
昭和 41 4,139 2,882 1,256
42 3,371 2,870 500
43 2,694 2,274 420
44 6,788 6,472 316
45 5,534 3,884 1,649
46 4,273 1,582 2,691
47 5,282 4,372 909
48 36,575 34,474 2,100
49 37,699 36,691 1,007
50 8,395 7,607 788
51 206,855 175,219 31,636
52 39,669 24,706 14,963
53 23,234 20,883 2,351
54 155,936 150,802 5,134
55 32,937 31,287 1,650
56 17,410 15,923 1,487
57 29,921 27,507 2,414
58 18,990 18,936 54
59 15,986 15,198 788
60 42,974 39,553 3,421






<福良財産区特別会計財産収入表>



(単位:千円) 
年度 財産運用収入 財産売払収入
(ロ)
財産収入合計
(イ)+(ロ)
基金積立金
車庫使用料 その他貸付料 基金利息 小計(イ)
41 865 865 2,125 2,990
42 1,235 1,235 756 1,991
43 769 769 1,288 2,057
44 1,000 1,000 道路公社他
5,160
6,160
45 1,137 624 1,761 2,335 4,096
46 1,356 1,000 2,356 0 2,356
47 1,363 800 2,163 0 2,163
48 2,968 300 3,268 大都リッチ
30,000
33,268
49 4,530 200 4,730 町(予定地)
30,000
34,730
50 4,789 200 4,989 1,876 6,865
51 5,442 200 5,642 本四公団他
197,772
203,414
52 6,063 200 6,263 0 6,263 16,000
53 6,035 200 861 7,096 0 7,096 1,000
54 6,189 200 895 7,284 建設省他
145,930
153,214 23,000
55 7,416 610 3,073 11,099 町(国道関連)
16,515
27,614 15,000
56 8,171 1,048 3,841 13,060 建設省(ダム)
2,584
15,644 5,000
57 10,380 900 3,506 14,786 建設省
12,725
27,511 13,762
58 10,124 702 4,347 15,173 0 15,173 4,347
59 12,886 522 560 13,968 0 13,968 △1,240
60 12,072 3,066 4,403 19,541 町(大和ハウス)
19,976
39,517 27,805
100,921 14,641 21,486 137,048 469,042 606,090 104,674






<駐車使用料収入と設備投資額との関係>



(単位:千円) 
年度 使用料収入 施設整備費 備考
工事請負費 修繕費 合計
44
3,700
3,700 役場周辺車庫建設
45 1,137 1,800
1,800
46 1,356
65 65
47 1,363 2,430
2,430 旧保健所跡車庫建設
48 2,968 3,500
3,500
49 4,530 489
489
50 4,789 1,515 44 1,559
51 5,442
158 158
52 6,063
116 116
53 6,035
60 60
54 6,189 464 1,032 1,496
55 7,416
3,584 3,584 役場周辺車庫改修
56 8,171
899 899
57 10,380 1,586 1,586
58 10,124 1,635 37 1,672 旧保健所跡車庫増設
59 12,886 106 1,109 1,215
60 12,072
685 685
100,921 15,639 9,375 25,014

※62年4月1日現在の収容可能台数
192台(役場周辺134台・旧保健所跡58台)







福良財産区特別会計の収入説明


 財産区はその所有している土地を埋立等造成に力を注ぎ、その地に各種施設の誘致を図り、又、運用に工夫を凝らし、有料駐車場を建設して常時収入の確保を目指してきた。
 福良財産区特別会計の最近20年間の収入のうち財産運用収入或いは売払収入に分類してそれぞれの金額を示すと別表のとおりになり、その総額は6億609万円になる。

1.有料駐車場と経営収支
  近年自動車の普及に伴い、福良地区内には保管場所の不足から昼夜を分たず、路上駐車が跡を絶たず、交通渋滞の原因となってきた。
  財産区はその管理地を活用して、昭和44年度より有料駐車場を造成し、一部は上屋を建設し、一般の使用に供してきた。施設は逐年増強して現在旧保健所跡、役場周辺と併せて192台の収容能力を持っている。事業を開始した昭和44年度より60年度迄の17年間に設備投資総額2,501万円で、使用料収入は総額1億92万円で、その差益を以って財産管理費を賄い、町内各種公共事業費の地元負担金や、町内各種の活動費にも充当している。

2.その他貸付料収入
  財産区有土地の利用活用により、別記の貸付料収入の確保を図り、その収入総額は、 昭和41年以来20年間で、1,464万円に達し、1と同様に活用を図っている。
なお、財産区有の土地は、南淡町の公共施設にはその用地を無償で提供し、協力してきた。その主なものは、役場庁舎、中央公民館、役場用駐車場の外、児童公園、大鳴門橋記念館、或いは町、県道用地等である。

3.財産売払収入
  山林の立木は、塩田跡地埋立造成の頃かなり伐採したが、良材が少いことや、その価値の低下により近年は実益が得られなくなった。山林土地は民間施設の進出に際し、買入れ申請のあったもの、或いは国道、有料道路(うずしおライン及び縦貫道)用地買収に対しては町当局と協議しながら、これを有償売却してきた。その総額は昭和41年以来20年間に4億6,904万円に及んでいる。
福良地区内の公共施設の地元負担金は上記の財産運用収入で賄えないような多額のものに対しては、この売却収入をもって充当してきたので、福良地区に関しては、一般町民の寄附金を集める等の協力を求めたことがない。

4.財政調整基金
  財産収入の剰余金は財政調整基金として別途に積立てている。この基金の原資は土地売払金で、地価の高騰や物価の上昇により目減りすることを考慮して、基金より生じた利息は、原則として基金に繰入れ積立てている。この基金は昭和60年度末現在額 は1億467万円(内利息分は2,148万円)である。




福良地区公共事業に対する負担状況


昭和41年度より60年度迄20年間に福良地区公共事業に対し、財産区特別会計から支出した額は別表のとおりで、その総額は4億308万円に達し、福良地区1戸当りの額は約16万円となる。なお、架橋縦貫道関係町基金2億円のうち取り崩し分1億円を加えると1戸当り約20万円となり、これは一般寄附によらなくて済んだ額と考えてよい額である。その内訳を目的別に記載すると次のとおりである。

○福良小学校関係 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○福良中学校関係 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○保育所関係 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○消防施設関係 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○公民館関係 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○グラウンド関係 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○そ の 他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

174,740千円
  6,979千円
  60,700千円
 15,799千円
  70,417千円
  55,000千円
  19,445千円

(50,000千円)





(50,000千円)

合  計 403,080千円(100, 000千円)( )は町基金




又、1件当りの多額のものは次のとおりである

○福良小学校校舎改築及び百周年事業 ・・・・・・・
○中央公民館新築 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○グラウンド及び体育館 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

166,300千円
 70,000千円
 55,000千円






その他 参考資料

地区公共事業に対する負担金一覧表

福良財産区からのお知らせ




○平成25年度福良財産区管理会活動状況について

1.福良町つくり関連会合への参加
2.定例会の開催
3.県連合会総会及び研修会への参加
4.駐車場の管理運営、未納金徴収
5.財産区所有地協会確認等

13回
12回
1回
随時
5回




○平成25年度各種団体補助金交付状況

・福良町づくり推進協議会
・福良婦人会
・福良子供会連合協議会
・福良体育協会
・福良防犯協会
・福良小学校
・ガールスカウト兵庫第95団
・福良保健衛生推進協議会
・福良消防協力会
・福良緑化推進協議会
・福良まつり実行委員会
・福良老人クラブ連合会
・福良消防団

1,300,000円
72,000円
144,000円
45,000円
90,000円
189,000円
10,000円
45,000円
50,000円
80,000円
3,200,000円
72,000円
2,198,700円

-----------------------------------------------------------------------
     計 7,495,700円



○その他
・岡の原公園の草刈り 1回






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