HOME「福良学教室」の概要活動の記録
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付録資料
年表 展示記録 古文書 唱歌



24年度活動の記録


第1回 4月 郷土史(年表づくり)
第2回 5月 現地巡り(向谷〜原田〜仲ノ町など)
第3回 6月 南淡公民館 「展示(「郷土史」、「町名の由来」)」
第4回 7月 地名(福良の字や小地域名)の由来
第5回 9月 福良の素麺
第6回 10月 現地巡り(八幡神社〜煙島〜波止の浜〜宮ノ下など)
第7回 11月 福良のみなと
第8回 12月 淡路人形浄瑠璃
第9回 2月 古事記編纂1300年

<※各項目をクリックすると、資料に飛びます。>







瀬戸の潮みず交流広場(福良地区県民交流広場)
福良公民館 〒656-0501 南あわじ市福良甲512-2
TEL:0799-50-3048  FAX:0799-50-3068














福良の歴史年表


 
西暦 年号 事 項
紀元前
12,000頃

淡路で有舌尖頭(石やり)が使われる。(淡路に人が住んでいた)
縄文時代 備前町より戎町に至る海岸で、縄文式土器破片が見つかる。
淡路市浦佃遺跡
弥生時代 備前町、原田、仁尾などで弥生式土器、サヌカイト(石器の材料)が見つかる。
(福良では縄文・弥生時代にかけ、海人族が生活していたと推測できる)
前300頃 弥生時代 洲本市宇山武山遺跡
南あわじ市上幡多〜下幡多幡多遺跡
洲本市下内膳下内膳遺跡
淡路市黒谷五斗長垣内遺跡
古墳時代 八幡神社境内古墳、鷺森古墳より土器が見つかる。
福良小学校敷地造成工事現場で柱根30本が見つかる(昭和7年)。
416 允恭天皇5 日本書紀に記載された初めての地震。福良の居神に津波の被害か。
南あわじ市市新〜三條木戸原遺跡
600頃 南あわじ市阿那賀伊毘沖ノ島古墳群

新羅渡来人が居住か。(新羅→白木、高麗津谷→小松谷などの地名の起源?)

645 大化 元 大化の改新
646 大化 2 東本町に、南海道の馬宿を置く。(駅馬) 
向谷の潟上(片上)から、福良撫養間の船が出入する。船宿旅宿あり。
710 和銅 3 平城京に都を遷す。
764 天平宝字8 淳仁天皇淡路に移される。この頃、淡路国分寺ができる。
785 延暦 4 早良親王、淡路に流される途中に死亡する。
794 延暦 13 平安京に都を遷す。
845 承和 12 明石・岩屋間に渡舟が通る。   
859 貞観 元 僧行教が宇佐八幡の分霊を奉じ、京都男山に至る途中、福良浦に寄って
福良八幡神社を創祀したという伝承。
940 天慶 3 藤原純友が淡路の国府を襲う。
(平安中期) 和泉式部(978年頃 - 没年不詳)が鏡ヶ渕に立ち寄ったという伝承。
999 長保 元 淡路の百姓の訴えで淡路守讃岐扶範が解任される。
1183 寿永 2 源義久、弦島城で能登守(平教経)と戦い、滅ぼされる。(射切石の伝説)
1184 寿永 3 一の谷の戦い  福良で敦盛の首が荼毘に付される。
第81代安徳天皇の行在所を福良湾内に置く。
1221 承久 3 承久の乱が起こる。
1223 貞応 2 淡路国大田文が作られる。(「福良庄、田廿町、畠、浦一所」とある)
1289 正応 2 時宗の開祖一遍上人の淡路遊行。阿波より福良ヘ渡る。
1340 暦応 3

足利尊氏の命により、阿波守護細川頼春の弟、細川師氏が淡路攻略のために大軍を率いて福良に渡る。鳴門岬の笹山にて軍馬を降ろす。
「馬降ろし」「筏おろし」という地名が残る。
細川師氏が立川瀬の戦で宇原兵衛らを破り、養宜館に入る(淡路守護)。

1350 観応 元 足利氏が安宅氏に沼島の南朝方水軍退治を命ずる。
1467 応仁 元 応仁の乱が始まる。  淡路守護細川成春は東軍に従う。
1519 永正 16 淡路守護細川尚春が阿波の三好氏に殺され、養宜館が滅ぶ。
1526 大永 6 安宅氏が洲本城を築く(一説に永正7年・1510年)。
1543 天文 12 ボルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝える。
1575 天正 3 福良八幡神社本殿(県文化財)が上棟される(棟札が現存)。
1581 天正 9 羽柴(豊臣)秀吉が淡路の安宅氏を滅す。
天正の頃 阿万本庄の城主、郷氏が沼島の梶原氏と戦い破れて、福良に隠れる。
(その後、密告により殺害され、郷殿神社に祀られる。)
四国討伐のため、秀吉8万の軍勢が福良より撫養に渡る。

桐原刑部、大坂城の築城にあたり、鳴門の石を切り出すよう命じられるが、これに服さず切腹を命じられる。(刑部の兄弟、桐野原伝右衛門との説もある。)

1585 天正 13 脇坂安治が洲本城主、加藤嘉明が志知城主となる。
この頃、福良の人口は1,000人強、200軒程であったと推定される。
1586 天正 14

天正大地震で蛇の鰭と洲崎の砂州が切れ、洲崎が島となる(一説に宝永大地震で)。
この頃、岡之城城主森崎中豊の長子、森崎四郎衛門英貞(後の十一屋伝右衛門)が福良を治めていた。

1591 天正 19 道元和尚が福良智光山遍照院を開山。(後に遍照院は報身寺と改称)
1592 文禄 元 文禄の役。 脇坂水軍が閑山島海戦で朝鮮水軍に敗れる。
1592〜97 文禄の頃 森崎伝右衛門が加藤嘉明に従い、文禄の役に参加する。
1596 文禄 4 讃岐の岡田真之介を施主として、重恩寺が開山。
1600 慶長 5 関ケ原の戦い
1610 慶長 15 姫路の大名池田氏が淡路を領有する。
1614〜15 慶長19〜20 大坂の陣  福良より森崎、萩原などが大坂の陣に赴く。
戎町に代官所があり、仮屋敷とする。
飛田某が波止の浜(新波戸)を築く。
1615 元和 元 御番手 阿波の大名蜂須賀氏が淡路を領有する。
1620 元和 6 福良八幡神社拝殿が建立される。
1625 寛永 2 真光寺の本堂が完成する。 
この頃、蜂須賀氏の城代家老稲田氏が淡路に赴任する。
福良には、十軒家に御屋敷、洲崎に番所がそれぞれ置かれた。
この頃、飛田氏が指揮して、東一丁目から五分一町までの町割を行う。
1627 寛永 4 淡路総検地
1637 寛永 14 嵯峨宮二品尊性親王より「慈眼寺」の寺名を賜る。
1649 慶安 2 福良浦人口633人 戸数310 (三原郡福良浦棟数人数改御帳)
1673 延宝 元 淡路の各村の棟付改帳を作られる。
1674 延宝 3 坂東半左衛門了空が干拓工事を開始する。(1699年に完了)
元禄の頃 この頃、新道を築き、道路ができる。
1697 元禄 12 『淡国通記』(碧湛)が刊行される。
1707 宝永 4

宝永大地震  煙島の紅蓮寺が津波で流滅する。蛇の鰭より洲崎へ続く部分が切れ去る(一説に天正大地震で)。

1730 享保 15 『淡路常磐草』(仲野安雄)
1771 明和 8 平瀬平助が福良浦で〆油業を創業する。屋号を「太平」とした。
1782 天明 2 広田宮村を中心に縄騒動が起こる。(福良は縄の積み出し港)
1834 天保 5 賀集a平が陶器製造を始める。
この頃、福良の家数978軒。(味地草)
1837 天保 8

飢饉に加え、コレラが流行し、福良では人口約3,300人の内、約1,300人が死亡する。

1838 天保 9 コレラの流行が収まり、7月には幕府の巡検使が福良に来る。
1845 弘化 2 福良で素麺製造が始まる。
1854 安政 元 南海大地震。由良と岩屋に砲台築造を始める。
1855 安政 2 煙島に最勝王経の石碑を建立する。 願主は野上正武氏。
1862 文久 2 福浦元吉が大坂で勤皇活動をする。
1863 文久 3 津井村の古東領左衛門が、天誅組の討幕運動に参加して敗れ捕えられる。
福浦元吉が天誅組に参加し、戦死する。

西暦 年号 事 項
1869 明治 2 版籍奉還・禄制改革
1870 明治 3 庚午事変が起こる。
1871 明治 4 廃藩置県。  淡路は名東県に入る。
稲田氏家臣が北海道静内に集団移住する。
1872 明治 5 福良郵便物取扱所が開設される(初代所長は泊宇平氏)。
この頃、福良の人口は5,606人、戸数1,015軒 (淡路の人口160,906人)
1873 明治 6 福良循誘小学校が神宮寺跡(現在の「老人憩の家」)に設置される。
1876 明治 9 淡路は兵庫県に編入される。
「明九橋」が太子屋分家、平瀬守一郎氏の寄贈によって建造される。
1878 明治 11 静岡県春野町本宮より福良秋葉神社を勧請する。
世界的な規模でコレラが大流行する。福良循誘小学校が30日間休校する。
1883 明治 16 仲之町に福良浦戸長役場ができる。
住吉町、谷川町、戎町、仲之町に布団壇尻がつくられる。
1884 明治 17 火災により慈眼寺の堂宇が焼失する。(明治15年説もあり)
1887 明治 20

福良循誘小学校が4年制の簡易小学校を併設して、「福良尋常小学校」と改称される。

明治20代

福良の有志によって「おのころ汽船」(1924年に阿淡汽船となる)が設立され、福良・撫養間定期就航

1889 明治 22 賀集の田中正平博士がドイツで純正調オルガンを発明する。
戸長制度が廃止され、町村制度が施行。初代福良町長は岡田長七郎、
二代は泉甚五郎。
1893 明治 26

伊賀野で賀集a平の興した淡陶社が、淡陶株式会社としてタイルの生産を開始する。

福良漁業組合設立
福良−洲本間に馬車が開通する。(1日3往復で、運賃は50銭)
1894 明治 27 日清戦争が起こる。  洲本に淡路紡績株式会社が創立される。
陸軍工兵隊が由良と鳴門岬に要塞建設を開始する。
1895 明治 28 慈眼寺が再建される。
1896 明治 29 二丁目の現福良財産区駐車場敷地に、福良小学校が新築される。
この頃、福良の人口は6,000人強、1,000軒程(福良古事記)
1897 明治 30 鳴門要塞が完成する。
1900 明治 33 大阪商船(関西汽船の前身)が大阪・甲浦航路を運行し、福良と沼島に寄港
1901 明治 34 桝井座(福良劇場)ができる。 南納屋町に席亭「宝來座」ができる。
(宝來湯の前身)
波止の浜に道路標柱が建てられる。
1904 明治 37 日露開戦 由良要塞の所属船が旅順港封鎖作戦に出動。
1907 明治 40 西川藤吉が福良余百海岸で真珠養殖を始める。

西暦 年号 事 項
1913 大正 2 福良に電燈事業所が設置され、初めて電燈が点く。
福良に電話が初めて通じる。
福良に靴下工場ができる。
1914 大正 3 第一次世界大戦始まる。
1918 大正 7 淡陶株式会社福良工場ができ、タイルの生産を開始する。
福良の人口 6,554人(男3,289、女3,265)、戸数1,330 (福良町誌)
1919 大正 8 乗合自動車が初めて通る。(福良−洲本)
1921 大正 10 淡路自動車会社ができ、洲本−福良の間にバスが通る。
1922 大正 11 淡路鉄道の洲本−市村間が開通する。
1925 大正 14 淡路鉄道が洲本・市村・福良間で全線開通する。
1926 大正 15 東本町に福良警察署ができる。それまでは戎町に洲本警察福良分署。
1931 昭和 6 満州事変
1934 昭和 9 小学校が現在地に移転、竣工する。
1937 昭和 12 日中戦争が始まる。
福良町水道が完成し、給水が始まる。(原田水源地)
1938 昭和 13 築地の埋立地ができる。
1940 昭和 15 福良保育園ができる。
1941 昭和 16 太平洋戦争が始まる。
1945 昭和 20 8月15日終戦
1947 昭和 22 日本国憲法が施行される。 農地改革が進む。
6・3制義務教育が実施される。学制改革により中学校ができる。
1948 昭和 23 福良公民館が、現在の児童館敷地にできる。
1951 昭和 26 三原保健所が、現福良財産区二丁目駐車場敷地にできる。
1954 昭和 29 明石・岩屋、福良・鳴門間のフェリーボートが就航する。
1955 昭和 30 福良町が町村合併して、南淡町になる。
1957 昭和 32 旧南淡町本庁舎が向谷にできる。
1963 昭和 38 鶴島に南淡路国民休暇村ができる。
1965 昭和 40 南淡路有料道路阿那賀線が開通する。淡路フェリー鳴門線が就航する。
児童館ができる。(現シルバー人材センター)
1966 昭和 41 国道28号線の改修が完了する。 淡路交通電車線が廃止される。
旧福良中学校前に埋立地ができる。(現在の浜町)
居神埋立地ができる。
1969 昭和 44 南淡路有料道路(うずしおライン)が全線開通する。
1980 昭和 55 南淡(福良)公民館ができる。
1983 昭和 58 南淡中学校が開校する。
1984 昭和 59 国道28号福良バイパスが開通する。
1985 昭和 60 大鳴門橋が開通する。
1995 平成 7 阪神淡路大震災が起こる。
2001 平成 13 福良港臨港道路(ちりめんロード)が全線開通する。
2005 平成 17 旧三原郡4町が合併し、南あわじ市となる。


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福良学教室展の記録


実施時期/平成24年6月14日〜30日
開催場所/南淡公民館1階展示ロビー
テーマ/(1)郷土史 (2)福良の町名の由来


1.主催のごあいさつ

  ようこそ「福良学教室展」をご覧いただきありがとうございます。

  本教室は、平成23年度からの「瀬戸の潮みず交流広場」事業の一環として、福良に関する「何でも学」を通して、地域の誇りを取り戻すべく教室活動を行っており、初年度の23年度では、@福良の歴史年表づくりを目指した「郷土史」とA福良の今に残る「町名の由来」をみんなで楽しく学習してまいりました。

  つきましては、限られた資料ではありますが、私たちの学習成果の発表も兼ね、ここに展示させていただきましたので、是非ご高覧のうえ、福良の歴史ロマンを味わっていただき、少しでも地域の元気や愛着に繋がれば幸いでありますし、至らぬところについては、ご指導願えればと思っています。

  後になりましたが、今回の展示にあたり、福良の各種団体には、いろいろとご高配をいただきました。 ここに改めて、関係各位のご厚意に感謝申しあげる次第であります。


2.展示物一覧(「福良の歴史」と「町名の由来」)

※画像をクリックすると、別画面で拡大画像が見られます。


(1) 米軍航空写真【昭和22年4月12日撮影】









(2) 福良の歴史年表【平成24年4月福良学教室にて作成】
    
別 掲(第1回の部に記載)







(3) 自行者嶽遠望之図【「味地草(安政4年小西友直他)」複写版】









(4) 海襌莽之図【「味地草(安政4年小西友直他)」複写版





「かるも」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】】

  福良の市坊からの位置上、以前は西谷と呼ばれていた。 
  この地に二つの集落があり、刈藻は海部、鳥取は鳥取部の部曲の人たちがそれぞれ暮らしていたと伝えられており、町名は代表する刈藻を平仮名にしたものである。








(5) 弦島古城蹟之図【「味地草(安政4年小西友直他)」複写版】









(6) 洲崎及び煙島之図【「味地草(安政4年小西友直他)」複写版









「浜 町」
の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】】

  昭和41年に、福良漁業協同組合によって白木谷前が埋め立てられ、漁業関連施設を中心に漁民住宅や商店も建ち並ぶまとまりのある町となり、浜町河岸のイメージに相応しいことから名付けられた。








「仁 尾」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成

  昔、この地に水銀や朱を採る採掘場があり、丹生津媛命が祀られ、丹生から仁尾と名付けられたと言われている。 
また、鳰(にお)と呼ばれる水鳥の生息地であったことから地名化したとの説もある。








(7) 牛王殿祠之図【「味地草(安政4年小西友直他)」複写版】】









「東十軒家」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  新波戸の西北高台に蜂須賀藩福良浦御屋敷があり、御屋敷付十人衆がこの地に住んでいたことから十軒屋と名付けられた。 
  なお、戦時中に、殿川を境に、東西の十軒家に分けられ、現在に至っている。








「西十軒家」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

東十軒家に同じ







「うずしお台」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  昭和40年代後半に、大都リッチランド株式会社によって、眺めの良いこの地を、別荘地向けなどの宅地造成がなされ、近くに福良湾を、遠くに鳴門の潮すじを同時に望める絶好の景勝地であることから名付けられた。








(8) 福良市坊方図【「味地草(安政4年小西友直他)」複写版】









「東一丁目」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  昔から福良の市坊東端にあって、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、先ずは東から順に一丁目と名付けられた。 
往時から「花の一丁目」と呼ばれ、賑わっている。 
  なお、明治初期に東西の一丁目に分けられた。








「西一丁目」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

東一丁目に同じ







「二丁目」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成

  昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、真光寺の筋から清水の川筋までを、順に、二丁目と名付けられた。
  往時から商家なども多く、賑わっている。








「北納屋町」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、清水の川筋から原田川までを、浜端に漁具納屋が並んでいたことに因んで、納屋丁と名付けられ、戦時中に、南北の納屋町に分けられ、現在に至っている。








「南納屋町」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】
    
北納屋町に同じ







「備前町」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、原田川から報身寺までを、昔々備前の国から観音さんが漂着し、慈眼寺でお祀りしたとの言い伝えから、備前丁と名付けられた。








「仲之町」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、報身寺並びに重恩寺の筋までを、三院が集まり、市坊の中程に位置していることから、中ノ丁と名付けられた。








「戎 町」
の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、慈眼寺の筋から次の筋までを、慈眼寺の筋、上町北側東角に御番所があり、その西隣に戎社が祀られていたことから、戎丁と名付けられた。









「住吉町」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、戎丁筋界から分一波戸(ぶんにちばと)の筋までを、元禄年間までこの町内に住吉社が祀られていたとの言い伝えから、住吉丁と名付けられた。








「五分一町」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、分一波戸(ぶんにちばと)の筋から網屋丁筋界までを、この波止付近で市が行われ、五分の一即ち二割を徴収していたことから、分一丁と名付けられた。








「網屋町」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  昔から福良の市坊に位置し、江戸時代に上町下町の町割りが行われ、分一丁筋界から柳川までを、浜端に網置小屋が並んでいたことに因んで、網屋丁と名付けられた。








「谷川町」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  福良の市坊の西端に位置し、この地に柳川が流れていたことから柳川丁と名付けられ、いつしか谷川丁となった。 ここには柳川庵もあり、上町には柳川橋も架けられていたが、今は暗渠となっている。








(9) 三院之図【「味地草(安政4年小西友直他)」複写版】









(10) 八幡社地之図【「味地草(安政4年小西友直他)」複写版









「東本町」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  福良の市坊からの位置上、以前は東谷と呼ばれていたが、昭和のいつしか東本町となった。 古代、南海道が中山峠を越え、淡路での終点福良駅が馬宿にあったとされ、今も昔も、東の玄関口として、交通の要衝である。








「本 町」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  江戸時代初期に、福良の市坊への道路の確保と塩田造成の必要から、河川改修と土地造成が行われ、この地を新道と名付けられた。
  往時から、淡路を代表する商家が軒を並べ、大いに繁栄し、昭和のいつしか本町となった。








(11) 向谷之図【「味地草(安政4年小西友直他)」複写版】









「向 谷」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  福良の市坊からの位置上、向谷と呼ばれている。 古代、南海道の四国への渡海場であった片(潟)上、勾玉等の工房であった玉造、明神を祀る居神など、この地に謂れのある字名の土地が多い。








「築 地」の由来【平成24年2月福良学教室にて作成】

  昭和13年に、福良土地株式会社によって埋立てられ、東京の築地の例に倣って名付けられた。 平成になり、更に県の埋立ても進み、福良港ポートターミナルとして再整備され、福良の観光拠点となっている。








(12) 福良字限大図【「福良財産区30年のあゆみ」綴込図修正版】









(13) 南あわじ市自治会区域図【「続三原郡史」綴込図修正版









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福良の地名の由来について


桂  修

〇「祖江(添江)」と「大江
  苧(そ)は麻の一種で、苧麻(ちょま)のこと。 古代、樹皮の繊維を紡いで衣服とした。 
  榊に苧麻を結んで神前に捧げ、神の寄代とした。 この麻を植えた所が苧植(そえ)や麻植(おえ)であり、大江もその転訛であると云う。


〇「居神」
  居神明神社を祀る地名で、祭神は水神(みかみ)であり、これが居神に転訛したとの説が有力である。 
  この辺の山を三上山と言うが、本来は御神山である。  
  祭神は罔象女(みずはのめ)命、丹生津媛(にうつひめ)命で、明神社の裏に巨石があり、石下より清水が流れ出ている。


〇「カメヤキ」
  これは地名と云うより甕を焼いていた所で、明治になってから徳島県の大谷焼の焼物師を招いて硫酸瓶などを生産した。この地に大きな登り窯があった。


〇「蛇の鰭(領巾)と洲崎」
  もとは繋がって一つの帯状の形であったのが、天正或いは宝永の大地震で切り離れたと言われている。


〇「余百」
  楊桃とも書くと云う。 誉百、誉桃、余桃の字がある。 
  古老の話からこの地にやまももの木が多くあったと云う。


〇「玉造」
  茶ヶ谷の隣が玉造の谷で、往古より管玉、曲玉等の工房があった地と伝わる。 
  大正時代に、ここから多数の小玉や未完成品や破損品、制作具と考えられる石も発見されたと云う。


〇「片上」

  片上とは潟上の転字である。 昔はこの辺りまで満潮になると海になり、干潟は陸地になる。 
  干潟の上との意味からの地名となった。 古代の淡路南海道では、四国への渡海場であった。


〇「八反」
  製塩業の為、塩田の開発にあたり、片上から妙見社のあたりまでの干潟を干拓し、塩田としていた。 
  昭和14年の埋め立てにより、広大な造成地が出来た。 
  今の南淡庁舎や公民館とその周辺地で、字名となっている。


〇「小松谷と白木谷」
  小松は高麗津(こまつ)、白木は新羅(しらぎ)。 朝鮮半島からの渡来人の居住地とされている。 
  (地名からの小松姓もある。)


〇「赤坂と仁尾」
  何れも朱砂採掘場と伝えられ、「丹生」等の同意である。 仁尾は鳰(にお)・・・・かいつぶりのこと。


〇「中山」
  福良から賀集へ出る峠。 仲山とか中山の姓がある。


〇「鏡ヶ渕」
  福良警部派出所前三角公園付近は小松谷川と法月川及び馬宿川の合流点で、清流が鏡の如く水が澄んだ渕があった。(現在は暗渠)
 
  和泉式部が訪れて詠んだ歌
  「立寄りて鏡ヶ渕をながむれば さてもやつれし我が姿かな」

  その昔歌碑があったがなくなり、幸い最近、碑を建て、その地に痕跡を残した。


〇「馬宿」
  福良では「ムマイド」と発音していた。 昔の人はウをムと云っていた。 
  ここに厩があって、常時、5頭の馬を置いていた。 
  往昔、南海道として都から山城、河内、和泉、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予への道を云った。 
  淡路では由良、大野、神本、福良にそれぞれ馬を五頭置いていたと云う。


〇「福良山と円山」

  八幡神社の山を福良山、又は神の山とも云う。 住吉神社の山が円山と云う。 
  この二つの山を双子山とも云う。


〇「藤井戸と藤川」

  昔、井戸の横に藤の木があった。 今も藤井戸があり、共同井戸の水源である。 前に地蔵があり、名仏としてきれいな庚申さんも祀られている。
  藤川は切通の左方の谷から流れ出て、福良山の山裾に添って、やぶ萬の裏の方へ抜ける道の下を流れて築地川に入る。


〇「切通」
  八幡さんの裏山北西の山裾を掘り割った道のこと。 
  福良への本街道であったと云うが、やはり土地の人の抜け道として切通して道にしたもので、福良への本道であれば、もう少し広く人も牛馬も通った筈である。 いつ頃、掘ったかが定かではない。


〇「新道」
  八幡神社の前面下に道はなかったと云うが、神前に道はない筈がないと考える。 宮下に道が出来て、新道が出来たと前田氏が云っているが、私はそうは思わない。 今の新道の山手裾を通り、曲りくねった道で宮前の方に出たと考えられるし、古代からそれ位はあったと思う。 
  江戸時代初期、塩田開発により新しく道を作り替え、新道が生まれ広い道となった。 これは塩浜の坂東家の功績大で、近現代に到って商店街となった。


○「岩川」
  新道の三島宅前で築地川に暗渠で合流する川が岩川で、この河川の谷筋周辺地を岩川(いわご)と呼ばれている。 硬い岩質の地層で形成されていることから地名となったものと思えるが、石切神社もこの地にあるのも決して偶然ではないように思われる。


〇「古波止と新波止」
  昔、四国への渡海場が備前町の浜にあって、今も古波戸の名が残っている。
新波戸は谷川町と十軒家の間の浜へ移った。 この間の広い通りの谷川町側道端に道路標柱があり、洲本・由良・志築・市村・岩屋・神戸への里程が刻まれており(明治35年建造)、福良の玄関口であった証しとなっている。


〇「刈藻」
  刈藻は海部の部曲の人で魚介、海藻を採っていた海人の住んでいた処。 
  藻塩刈るの古歌があるように製塩を業としていた。 
  小池春六氏宅の庭を作った時、地下70〜80センチのところに黒い砂が出て、須恵器や土器のかけらが出たので、この辺りで製塩が行われていたと思われる。 今後の発掘に期待したい。


〇「鳥取」
  鳥取は鴨族の住んでいたところで、神武東征の砌、鳴門で船団を助け、案内役をしたとの話が御崎神社に書かれている。 
  鴨とは八咫烏(やたがらす)の意味もある。 名のとおり水鳥等を獲っていたかも知れない。 
  また、砥取の字もあり、砥石を採石していたのかも知れない。



〇「王園」
  地元では「オオゾノ」ではなく「オオゾ」と呼称する。 
  源平合戦に敗れた平家が屋島へ落ち行く時、鳴門の潮待ちの為、安徳天皇がこの島に上陸して休まれたので王園と書くが、本当は大園と云い、沖の刈藻(島)とも云う。 
  別説として大藻野(おおそうの)と云って海藻を採って干場にしたのが島名になったとも言われている。


〇「行者ヶ嶽と鶴島」
  土地では単に行者と云う。 山の頂上に小堂があって役ノ小角の像が祀られていて、江戸時代の話では、祭日には大勢のお参り人が行列をなし、賑わっていたと聞く。 
  明治になって、鳴門の要塞を築くにあたり、行者堂は鶴島の上に移転した。
  鶴島は釣島、弦島とも書く。 弦島城は今の国民休暇村のところを云う。


〇「真奥」
  仁尾の奥、鶴島の下の方にあり、地名となっている。 この地名が真奥の姓になっている。


〇「煙島」
  何よりも平敦盛の首級をこの島で荼毘にした時、煙が上がったとの説は大きい。 狼煙の煙が上がったとか、何かの合図の方法での煙を上げた。
  もともと弁天島と云い、弁財天を祀っていて、昭和の初期までお祭りの時は対岸から船を並べて、板を敷きつめて、海上の道を作り、僅かの渡り賃で、参拝の為、通ったと云う。


〇「岡尾山」
  中腹に地蔵庵があって、昭和初期まで庵主が住んでいた。 その上に現在岡の原公園の広場が出来ている。
  頂上近くに大師庵があり、今もお参り人が多くいる。 昭和40年代まで斉藤台洲と云う庵坊がおられて、素晴らしい漢詩を詠む方であった。 その左上の一段高い所に御嶽さんが祭祀され、立派な拝殿があり、信者によってよく清掃されている。 その上の方に登った所に航空灯台が出来ている。 関西空港建設時に出来、道路も整備された。


〇「済度」
  幸堂また才戸と当て字があったらしい。 この地に慈眼寺の末庵として済度庵があったが、今の金光教会の辺りと云う。 明治の頃、由良要塞の司令部があり、鳴門要塞にも多くの軍人が配属され、福良にも前の中学校のあったところに兵舎があり、この済度に営外居住の軍人がこの辺りに住み、軍人町の名が残っている。


〇「円通庵と蘭塔坊と貝谷」
  エンツアンとラントウボウと戎壇寺のこと。 これは一寸大げさに思うが、まあ一つの庵があったのでしょう。 
何れも慈眼寺十四庵の諸堂・諸庵であった。 
  地名にあるが、今は知らないし、云わない。 (そこで、質問を通して、全員で協議したところ、谷川町柳井戸の西側に円通庵敷が現存しており、また、貝谷は字名の具谷であることが判明した。)


〇「丹賀」
  田桑とも書くが、ここは地形的に谷で崖になっているので、谷崖が「タンガ」になったと古老から伝わっている。


〇「薬師堂と釈迦堂」
  御堂があったもので、今も地名として残る。(質問を通して、全員で協議したところ、釈迦堂は字名であり、字限大図に示す区域内に位置していたものと推定した。 お稲荷さんの奥の院がある山である。 
  また、薬師堂は北納屋町の通称「一番札所」付近の薬師谷に位置していたと推定した。)


〇「大字名である福良の地名由来」について
  先日新聞で見たが、九州大宰府国分遺跡から発見された木簡から地名の「嶋評(しまのこおり)」郡の名前で評・郡・同じこおりなのだが「評」は701年の大宝律令により郡と表記を改められたとあった。 

  この頃、既に漢字による地名があったので古代からの地名が今に伝わっている。 
前田勝一著の「福良むかしむかし」からここに抜粋して記す。 風土記撰進の命令は、元明天皇の和銅6年(713)5月2日に出された。 

  その中に郡・郷の名は出来るだけ二字にしてよい名を付けよとある。 佳名のこと。 この時に字体が出来たものかは知らないが、本当によい名であると云っている。 地名はその地域を形づくる統合された文化であり、民俗、生活、信仰、政治、経済、交通等人々の営みの経緯であり、地名によって人々のそこに根付く思考があり、土地の人情がある。

  武田信一氏の地名の研究では、福良は鳴門海峡に面した要地で縄文式土器が出土しているところからも古くから開けた土地であることがわかると云う。 

  文献による「日本後紀」延暦18年(799)6月に淡路真人福良麿の名がまた「延喜式」の淡路國駅馬に「福良」が見える。

  さて、福良の語源に次のような説がある。
 (1)淡路真人福良麿の御名代地であったから・・・。
 (2)湾曲せる海岸線を意味する。(柳田国男)
 (3)袋の転訛で袋状の入江に由来する。(日本地名語源事典)
 (4)低所(ヒクド)すなわち低地、低湿地を意味する。 袋と同義。(日本地名語源事典)
 (5)吹く浦が福浦―福良となった。


 「和名抄」によれば、上総國海上郡福良郷、武蔵国久良郡鮎浦(布久良)郷の名がみえる。 
 「地名の研究」によれば、次のような例があげられる。

 (1)羽後飽海郡吹浦村大字吹浦
 (2)相模足柄郡福浦村
 (3)阿波海部郡浅川村大字浅川浦字西福良
 (4)出雲八束郡森山村大字福浦
 (5)備前和気郡福川村大字福浦
 (6)能登羽咋郡福浦村
 (7)淡路三原郡福良町
 (8)周防大島郡安下庄村大字阿高フクラ
 (9)日向西臼杵郡椎葉村大字上福良
 (10)大隅姶良郡牧園村大字中福良
 (11)豊後直入郡管生村大字戸上字福ヶ谷
 (12)摂津有馬郡山口村大字船坂字大フクラ
 (13)越前大野郡五箇村大字上打波字福倉

  柳田国男の「地名の研究」でAの説を次のように展開している。 我が国の海岸を通覧するに最も多き地名が三つある。

  由良、女良(めら)、福良である。・・・福良は日本語の膨れると云う話と語源を同じくするもの。 
  海岸線の湾曲としている形状に、吹く浦は海岸ならばどこでもあり一般的と言ってはいるが、私は「蛇の鰭と洲崎」を考えると、吹上の浜との砂や砂利の同一関連性に大きな関心を持っている。







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福良の素麺について

淡路手延素麺協同組合
組合長理事  森崎英毅
     

1.「福良の素麺」の沿革

【江戸期〜明治初期】
  昭和51年10月発刊の「淡路そうめん(金山英雄・守本進両氏の刊行)」によると、「天保年間(1830〜1843)に、渡七平なる者ありて伊勢神宮参拝の帰路、三輪の里(奈良県桜井市)を通り、たまたま農家で素麺作りを見て、その製法を会得したくて、2年間この地に留まり、これを習得して淡路に帰り、福良浦で素麺を作ったのが始まりである。」とされている。 

  当時、原料の小麦粉も自家製で、石臼を回して良質の粉を挽き、3人で一日やっと小麦5升分(約7.5s)の素麺を作っていたといわれている。 江戸時代の末期には、まだ数軒の製造家で出来た製品を農家で交換するなどほんの内職程度のものであったと思われる。


【明治中期〜大正期】
  明治中頃には、先山の麓、洲本市の内膳に水車が出来て、そこで小麦粉を作るようになり、更に明治30年頃になると、島外より小型製粉機による小麦粉が入り、原料の入手が容易になった。 これに伴い、ぼつぼつ業者も増え始め、特に漁業者の冬期不漁期の副業として最適とされ、家内工業として発達してきた。 

  淡路島は、特に南淡路の福良地区は気候風土に恵まれ素麺の製造に最も適しており、福良は自然の良港として、船舶の出入りも多く、船便により徳島・和歌山方面へと送られるようになり、次第に市場を拡張してきた。

  明治の後期には、各地で催された博覧会や品評会・共進会にも素麺を出品し、度々入賞した。 大阪市場でも好評を得て、明治39年の業界紙で高く評価され、その真価が認められた。 

  こうして次第に市場の評価を得て、販路も和歌山・大阪方面へと伸び、年々業者も増え、生産が上がり、明治41年10月、「三原郡素麺同業組合」を設立、組合員68名、初代組合長、飛松治平氏が選ばれた。
生産高は、24,500箱(77,400円)。 銘柄は、「千鳥」であった。 

  明治45年、製品に階級を設け、先岳糸・おのころ糸・御陵糸・浮橋糸・千鳥糸・淡路糸以上6銘柄で、それぞれ麺の太さで規定され、加工賃が決められた。 加工賃は「御陵糸(18s)」1箱の工賃は大工の日当とほぼ等しかった。 

  大正5年の最盛期には業者137軒、約4万箱を生産することとなった。 
前年の1915年(大正4年)、サンフランシスコ万国博覧会に当組合から製品を出品して金賞を獲得したことは当時の組合員の意気軒昂たるものを示す何よりの証明と言えよう。 

  大正6年、組合員は115名、生産高48,000箱(183,000円)、出荷先も大阪・兵庫・和歌山・徳島と近隣府県すべてに及び、特に大阪では、天神祭をピークに、大量の素麺を食べる習慣があって、この祭りの景気がその年の素麺の相場を左右したとも言われている。


【昭和初期〜戦中】
  昭和初期には、世上一般の不景気で業界も苦況に立ち、困難な時代であった。 時には沖縄まで行って、販路を求めたこともあったようである。 

  又、戦争中は、質より量の時代で、機械素麺が盛んになり、手延業者に配給される原料が制限された。 
こうした時代も愛好家から珍重され、そのお陰で生産が続けられた。 

  昭和14年、生産統制で原料が割当制となり、昭和15年、素麺配給統制令公布で、公定価格が決められ、手延素麺1箱(18s)8円40銭となった。 

  昭和16年、県下一体組合合併を強制され、「兵庫県乾麺統制組合」に合併する。 
さらに、昭和19年には、「兵庫県手延素麺統制組合」となる。


【終戦後〜現在】
  戦後、食糧難の時代で、統制があってないような状態であったが、昭和23、4年には戦前の6割にあたる生産が回復した。 

  昭和27年、念願の麦類の統制がやっと撤廃され、県手延素組合から分離独立して「淡路手延素麺製粉協同組合」として発足し、森崎英雄氏が理事長に就任する。 

  昭和29年、守本作一氏が理事長になり、「淡路手延素麺協同組合」と改称、時代の好景気と需要の波に乗り、業界は再び飛躍していった。 

  昭和37年には共同倉庫を建設。 製品、約1万箱収容・保管する。 

  昭和47年、楓為夫氏が理事長となり、昭和47年度から生産数量が40,000箱以上に増え、昭和54年度には54,284箱と過去最高の数量となる。 

  昭和55年度、森崎英雄氏が再び理事長になり、昭和63年度まで勤める。 生産数量は36,000箱から42,000箱程度の数量を維持する。 

  昭和59年11月30日、組合事務所建設用地を取得。 
平成元年度、金山喬司氏が理事長となり、平成4年度まで35,000箱を維持できたが、平成5年度から10年度に20,000箱台に減少する。 

  そんな中でしたが、平成7年9月末日、念願の組合事務所を建設した。 

  平成11年度から組合員の高齢化や後継者不足等の影響から20,000箱台から10,000箱台に減少する。 

  平成13年度、森崎英毅氏が理事長となり、平成19年度は10,000箱を割り、9,500箱に成るが、その後何とか10,000箱の生産数量を維持しているのが現状であります。 

  平成20年は、組合設立100周年を迎え、行事は何にも出来ませんでしたが、5月の明神講例祭は例年より盛大に行われた。 

  平成21年度からは、従来からの7月14日の素麺神社宵祭り祈願の神事を「そうめんの日」に因んで、7月7日の七夕の日に祈願祭を行なうようになった。 

  また、平成21年からの大阪難波での物産展や平成22年からの大阪あきない祭りなどでそうめんの振る舞いをして、PRに努めている。 

  現在、組合員数が17軒に減少したが、2、3年前から若い後継者が戻って来て、「淡路島ぬーどる」とか、本年度から「ちどり絲」を約70年ぶりの復刻生産を始めて、より太い「コシ」「のどごし」「味わい」にこだわった素麺を製造し、関東方面、特に東京へ販売先を絞って努力しているところであります。




2.現状の「福良の素麺」等製品銘柄

【手延素麺】
1) おのころ糸『国生み神話のおのころ島に因んで命名、最高級』
太さ0.40〜0.50o 長さ19p 1把(50g)当り約750本
2) 御陵糸『淡路廃帝と呼ばれた淳仁陵に因んで命名、主力銘柄』
太さ0.70〜0.80o 長さ19p 1把(50g)当り約450本
3) 淡じ糸『豊かな文化と歴史を誇る淡路島に因んで命名』
太さ1.20〜1.30o 長さ19p 1把(50g)当り約250本
4) ちどり絲『コシ、のどごし、味にこだわり、70年ぶりに復刻』
太さ1.50o 長さ19p 1把(50g)当り120〜150本
※ その他、卵素麺などの色素麺がある


【冷麦、干うどんその他】
1) ひやむぎ『自然なのどごしとコシの強さが自慢の冷麦』
太さ1.60〜1.80o 長さ24p 1袋当り200g入り
2) 潮風うどん『伝統の手延素麺の技法を生かしたうどん』
太さ1.70〜1.90o 長さ24p 1袋当り200g入り
3) 淡路島ぬーどる『淡路のうまいもんと手延素麺のコラボ!』
太さ2.00o 長さ38p 1袋当り300g入り


3.「福良の素麺」のこだわりの特徴と製法

【特 徴】(良い製品を作るための工夫・こだわり)
1) 機械化が進む中、昔ながらの製法(2日工程)が引き継がれている
2) 小麦粉は福良独自の配合(中力粉ベース)でブレンド
3) 麺を、福良独特の土間室(ネビツ)で熟成している
4) 乾燥作業時、付けハタを11タケ(淡路以外は9)としている。(おのころ糸は、12タケ)
5) 製造期間を10月から4月末日まで限定している。

【製 法】

   別添「製造工程写真表」参照


4.「福良の素麺」の生産数量等の推移

   別添「淡路手延素麺の生産数量等の推移」参照


5.「福良の素麺」の現状
  近年の日本の食文化は、洋風等の多様化が顕著となり、素麺全体の消費量はやや減る傾向がありますが、夏場の冷やし素麺や鯛素麺、にゅうめんなど根強い人気に支えられています。

  現在、全国的な生産量は約300万箱程度であり、そのうち淡路は1万箱でありますので、シェアは0.3%となっています。 手延素麺組合別の生産量と組合員数を列挙すれば、次のとおりであります。

日本手延素麺協同組合連合会加入組合別生産量と組合員数

兵庫県手延素麺協同組合(揖保の糸) 1,180,000箱 546軒
小豆島手延素麺協同組合(島の光) 150,000箱 137軒
奈良県三輪素麺工業協同組合 125,000箱 94軒
岡山県製粉製麺工業協同組合(かも川) 7,000箱 10軒
淡路手延素麺協同組合 10,000箱 17軒
三重の糸大矢知手延素麺協同組合 2,000箱 3軒
半田手延素麺協同組合 95,000箱 26軒
島原雲仙農業協同組合 50,000箱 53軒
島原手延素麺協同組合 27,600箱 23軒
長崎県有家手延素麺協同組合 35,000箱 32軒
南高島原手延素麺協同組合 10,000箱 9軒
長崎県手延素麺製粉協同組合 28,000箱 20軒
美馬農業協同組合 900箱 2軒


  上記のとおり、「福良の素麺」の生産量は少ないが、業界では高級品として高く評価されており、この期待に応えていきたいと思っています。

【現在の主な素麺料理】
  冷やし素麺、鯛素麺、にゅうめん、吸い物、サラダ


6.「福良の素麺」の将来

  凡そ、理想の姿として、次のようなことを考えていますので、皆様の一層のご支援をお願いいたします。


1) まず、和の食文化が続く限り、更にその繁栄も願い、良い素麺を作っていく。(伝統の製法を守る。)
2)

素麺が食材として見直され、あらゆる料理に使われるようになる。(素麺の消費拡大、時代に即応した製品開発)

3)

多くの産地がある中、「福良の素麺」のブランド化を図っていく。(産地偽装・製造時期明示対応等の安全・安心などの品質管理の徹底と他産地との差別化)

4) 福良(地元)の人に食べてもらう。 福良に来て食べてもらう。(地産地消、PR、地域振興への貢献)




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絵で見る福良港の移り変わり


福良学教室学級委員 太 田 良 一

 
  

  福良に住む私たちの今日の生活を考える時、「福良のみなと」を切り離しては考えられません。 言わば、「福良のみなと」は、私たちにとって、母なる海の存在であります。 

  そこで、江戸時代からの絵図や写真などで「福良のみなと」の姿を振り返り、現在の私たちの暮らしに、港の整備が、どれだけ役に立っているかなどを実感していただきたく、本資料を作成しましたのでご高覧願います。 

  なお、今現在の県の「福良のみなと」の整備については、主として、津波に対する減災対策としての高潮対策事業(海岸整備事業)に取り組まれているところであります。





『県港湾位置図(平成22年県港湾統計年報)』

 【解説】
  県内国土交通省港湾局所管の港湾一覧
種  別 県管理 市管理 合 計
国際戦略港湾
1港(神戸) 1港
国際拠点港湾  1港(姫路)
1港
重要港湾  2港(尼崎西宮芦屋など)
2港
地方港湾 25港(福良など) 1港(古茂江) 26港
合  計 28港 2港 30港

 平成23年県内航路別利用客実績では、福良港(観潮船)は第3位にランクされています。
(第1位は岩屋〜明石、第2位は姫路〜家島となっている。)


『現況福良港平面図(兵庫県洲本土木事務所港湾第2課提供資料)』 
【解説】
  平成23年度末の福良港の整備現状が示されています。 港湾区域は点線(鶴島灯台を起点)で表示、青色実線は県管理海岸施設を表示しています。


『福良の古図(天保6年(1835)作)』
【解説】
 江戸初期に十軒家の「波止の浜」の築造が、江戸中期に向谷塩浜の塩田造成などがあり、当時としては大きく海岸線が変化したことが読み取れる。


『向谷之図(「味地草(安政4年(1857)小西友直他の刊)」)』
【解説】
  既に、八反(塩浜)から大江、祖江、居神にかけて、石積の海岸護岸が築造されていたようである。


『八幡社地之図(「味地草(安政4年(1857)小西友直他の刊)」)』
【解説】
  江戸時代中期の塩田造成に伴う新道の造成は、築地川の護岸と海岸護岸の築造によってなされたようである。 これにより、文字通りの新道(福良の中心市街地への広い入り道)の確保と新たな新道の商家群が形成された。


『福良市坊方図(「味地草(安政4年(1857)小西友直他の刊)」)』
【解説】
  五分一町の「分一波止」を中心に、一丁目から十軒家までの各所に係留石積護岸があり、活発な漁業活動と海運活動の様子が窺える。 沖には、井筒屋などの大きな廻船も停泊していたのでしょうか。


『牛王殿祠(「味地草(安政4年(1857)小西友直他の刊)」)』
【解説】
  十軒家には、福良で三番目に出来た四国への渡海場「波止の浜」が一段と大きく突き出ていたようである。 このほか、西十軒家の「御船屋」前に船着場があったようである。


『福良浦渡海場(「淡路国名所図絵(明治27年(1894)暁鐘成の刊)」)』
【解説】
  作者の暁鐘成が「味地草」を見て、現地を巡り歩いて描がかせたものであるが、江戸後期往時の「波止の浜」の賑やかな様子が窺える。 ここから見る煙島などの遠景も、今もこのままである。 


『洲崎及煙島(「味地草(安政4年(1857)小西友直他の刊)」)
【解説】
  洲崎には御番所があり、船便での人と荷物の出入りを厳しく監視していた。
  対岸の仁尾海岸一帯にも石積護岸が築かれていたようである。


『弦島古城蹟之図(「味地草(安政4年(1857)小西友直他の刊)」)』
【解説】
  真奥や有ノ木の海岸にも石積の海岸護岸が築かれていたようである。


『福良字限大図(「福良財産区30年のあゆみ(昭和62年(1987)刊)」)』
【解説】
  本図は、明治初期に、土地登記事務のために作られた「登記所備付字限図」の所在集合図であり、今も公図となっている。 築地と浜町は、降年の昭和13年と昭和41年にそれぞれ埋立てられ、別図扱いとなっている。 従って、本図は明治初期の福良の姿である。


『米軍航空写真(昭和22年(1947)4月12日撮影)』
【解説】
  昭和13年埋立て竣工済の築地と十軒家前の防波堤等の姿があり、50才台以上の住民にとっては大変懐かしい「福良港の原風景の姿」となっている。


『現況福良港平面図(兵庫県洲本土木事務所港湾第2課提供資料)』
【解説】
  昭和22年から平成23年度までの間に、埋立て等により陸地となった区域を着色している。 主なものを列挙すれば、向谷の港湾改修(昭和39〜45年度)、浜町〜築地間の港湾改修・海岸整備(昭和56〜平成11年度頃)、蛇ノ鰭の県企業庁の土地造成(昭和50年代)などがある。


『福良港整備事業費実績一覧(兵庫県洲本土木事務所第2課提供)』
【解説】
  昭和40年度から平成23年度までの海岸事業(高潮対策)と港湾事業(港湾施設)を含めた総額で、何と14,359,478千円の巨費が投じられている。


『福良港港湾台帳平面図(西)(兵庫県洲本土木事務所第2課提供資料)』
【解説】
  現状の施設整備状況を示す。 昭和50年頃の地形と現状の整備状況が対比できる。 なお、築地〜浜町間の臨港道路や浜町の浮桟橋なども対象事業施設である。


『福良港港湾台帳平面図(東)(兵庫県洲本土木事務所第2課提供資料)』
【解説】
  現状の施設整備状況を示す。 昭和50年頃の地形と現状の整備状況が対比できる。 なお、築地〜浜町間の臨港道路や観潮船の浮桟橋なども対象事業施設である。


『工事用基準面と潮位(兵庫県洲本土木事務所第2課提供資料)』
【解説】
  福良港での港湾工事を計画する場合、先ず福良の潮位を知ることが必要です。
  ※ 潮位を知る。⇒ 地盤高を知る。⇒ 高潮への備え ⇒ 津波への備え
  潮位は、工事用基準面(DL)で表され、概して言えば、大潮時の最低潮位を±0.00mとして、地域毎に定められています。(さんさんネット「お天気チャンネル」などの潮位としても使われている。) 一方、全国統一の標高値として、東京湾平均海面(TP)を±0.00mとして定められており、広く地図上の標高値として、また、津波高数値の単位としても使われています。 DLとTPの関係を知っておけば、高潮や津波に対する対応も完璧。


『施設標準断面図(防波堤西)(兵庫県洲本土木事務所第2課提供資料)』
【解説】
  西十軒家前の防波堤の構造は? (基礎)基礎石マウンドと被覆石
   (堤体)コンクリートケーソン、(上部)上部コンクリート  

  
『施設標準断面図(防波堤東)(兵庫県洲本土木事務所第2課提供資料)』
【解説】
  南納屋町前の防波堤の構造は? (基礎)置換雑石、基礎石マウンド
   (堤体)方塊コンクリート2段積、(上部)上部コンクリート


『施設標準断面図(護岸東)(兵庫県洲本土木事務所第2課提供資料)』
【解説】
  築地地内、第3排水機場水門前の防潮堤護岸の構造は? (躯体)控え矢板式護岸、(上部)上部コンクリート、防潮堤コンクリート、水叩コンクリート、排水溝コンクリート


『施設標準断面図(護岸西)(兵庫県洲本土木事務所第2課提供資料)』
【解説】
  浜町西側取付護岸の構造は? (基礎)基礎石マウンド、(堤体)方塊コンクリート2段積、裏込栗石、吸出防止材敷設、(上部)上部コンクリート、舗装コンクリート、排水溝コンクリート


『施設標準断面図(護岸東)(兵庫県洲本土木事務所第2課提供資料)』
【解説】
  築地観潮船のりば付近の護岸構造は? (基礎)基礎石マウンド、(堤体)方塊コンクリート、直立消波コンクリートブロック3段積(接岸時の返し波の抑え)、(上部)上部(防潮堤)コンクリート、水叩コンクリート、排水溝コンクリート


『暮らしを守る排水機場(兵庫県洲本土木事務所第2課提供資料)』
【解説】
  高潮対策排水機場の仕組みを図解しています。


『第2排水機場標準断面図(兵庫県洲本土木事務所第2課提供資料)』

【解説】
  第2排水機場(築地)の構造は? 先ず水門を閉じ、外水側吐出ゲートを開き、ポンプを起動すれば、内水側流入渠から水を引き込み、強制排水を開始、必要に応じて除塵機を運転。 強制排水は、築地川流域だけでなく、清水川流域以東域も含まれる。


『高潮対策排水機場施設一覧(兵庫県洲本土木事務所第2課提供資料)』
【解説】
  現有福良港内3箇所の排水機場の設備と機能等をまとめました。 これらによって、十軒家以東の高潮対策については、安心な状況になっています。





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古事記と福良〜古事記編纂1300年にちなんで

堀 部 るみ子

1.「古事記」と「日本書紀」
(1) 6世紀中頃、欽明天皇の時に「帝紀」と「旧辞」が成立したといわれ、いずれも記紀のもとになったが現存していない。

(2) 記紀は天武天皇の命により、681年(天武10年)頃に編纂事業が始まる。

(3) 「古事記」について
上中下の3巻で、天地初発から推古天皇まで。
 稗田阿礼(ひえだのあれ)が口述する「帝紀」と「旧辞」を太安万呂(おおのやすまろ)が筆録する。
 712年(和銅5年)に、全3巻を元明天皇(げんめいてんのう)に献上。
 歴代天皇の系譜だけでなく、天皇の誕生につながる神話の時代も詳細に収録するなど、天皇家を神聖化することで、国家支配の正当性を示す内容。
 紀伝体

(4) 「日本書紀」について
 全30巻と系図1巻で、天地開闢(てんちかいびゃく)から持統天皇まで。
 天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)が最終的にとりまとめる。
 720年(養老4年)に、全30巻を元正天皇(げんしょうてんのう)に献上。
 国家の公式な歴史書である正史として、「帝紀」「旧辞」のほか、中国、朝鮮の歴史書や宮廷・寺院・豪族による記録、各地に伝わる伝承なども取り入れた。 神話の時代に関する記述を最小限にとどめ、天皇家による皇位継承の記録が中心。 中国をはじめ国外に向けた日本初の正史として漢文で編纂。
 編年体


2.「古事記」の中の第15代応神天皇
 昭和7年、福良小学校の校舎建設の時、建物の柱らしき太い木の根元が、たくさん掘り出された。 幹の周りが約3尺〜4尺5寸、直径約1尺〜1尺5、6寸、長さは約1尺5寸〜2尺5寸の桧材であった。
 当時、福良八幡神社の宮司であった宮崎氏が、応神天皇の淡路御原離宮跡と推定。
応神天皇は品陀和気命(ほむだわけのみこと)(「日本書紀」では誉田別命)で、大雀命(おおさざきのみこと)(のちの仁徳天皇)や阿具知三腹郎女(あわじのみはらのいらつめ)(「日本書紀」では淡路御原皇女)の父。
 応神天皇は第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と神功皇后(じんぐうこうごう)を父母に持ち、仁徳天皇(第16代)を子に、履中天皇(りちゅうてんのう)(第17代)・反正天皇(はんぜいてんのう)(第18代)・允恭天皇(いんぎょうてんのう)(第19代)を孫に持つ。
 応神天皇は130歳まで生きたといわれる。 「日本書紀」では110歳。 応神天皇の在位は41年で、この仁徳天皇は80年以上在位したといわれている。
 応神天皇の孫の反正天皇は淡路で生まれ(松帆の産宮神社(うぶのみやじんじゃ))、生まれた時から歯が美しく整っていたといわれ、幼名は多遅比瑞歯別命(たじひのみずはわけのみこと)。
 「宋書(そうじょ)」の倭(わ)の五王(ごおう)のうち、応神天皇は讃(さん)とする説がある。 また仁徳天皇を讃とする説、あるいは珍(ちん)とする説、応神、仁徳を同一人物とする説もある。
 応神天皇の都宮は明宮(あかるのみや)(橿原市大軽町)・難波大隅宮(なにわのおおすみのみや)(大阪市東区)。


3.「日本後紀」と福良氏
巻8 桓武天皇(かんむてんのう)(延暦18年(799)5月〜6月条)
「延暦十八年六月巳丑(つちのとうし) 淡路真人福良麻呂(あわじのまひとふくらまろ) 従五位下少輔(じゅごいのげのしょうふ)となる」
巻13 桓武天皇(大同元年(806)3月条)
「大同元年三月 従五位上 淡海真人福良麻呂(おうみまひとふくらまろ) 従五位下路真人年継 六位以下八人 山作司(さんさくし)となる」
※ 延暦16年(797)、正六位 淡海真人福良麻呂
巻5 桓武天皇(延暦15年(796)12月〜16年正月条)
「淡海真人福良麻呂」の名がみえる。
同(延暦16年2月乙丑(きのとうし)の条)
「従五位下 淡海真人福良麻呂 治部少輔(じぶしょうふ)となる」
古代における真人(まひと)は、八色(やくさ)の姓(かばね)の第一として皇室から分かれた「公」の姓を持つ豪族に授けられた。 天武13年(684)制定当初は13氏であったが、のち増加し、国史上に60人以上みられる。 13氏のうち5氏は6世紀以降に大王家から分かれた準皇族氏族、8氏は越前・北近江の豪族である。 真人姓を与えられた皇親の没落とともに朝臣姓(あそんせい)の下位とみなされた。
 少輔は八省のうちの長官(かみ)につぐ次官(すけ)クラスで、大輔(だいふ)1人・少輔(しょうふ)1人となっている。
 八省は中務省(なかつかさしょう)・式部省・治部省(じぶしょう)・民部省・兵部省(ひょうぶしょう)・刑部省(ぎょうぶしょう)・大蔵省・宮内省(くないしょう)である。
※上記参考資料 「新訂増補 國史大系3」 吉川弘文館 日本書紀(1) (2) (3) (4)より抜粋


4.福良氏について(「福良むかしむかし」より)
 清和天皇の後胤(こういん)六条判官源為義(ろくじょうほうがんみなもとのためよし)の十一男、加茂冠者義次(義嗣)十二男、淡路冠者義久が弦島城に在城。(冠者 かじゃorかんじゃ)備前下津井の能登守平教経(のとのかみたいらののりつね)を攻めるが、返り討ちに遭い、弦島城まで帰ってくる。 義次はこの戦で命を落とす。 義久は泉州吹井へと逃げるが、教経に負け亡くなる。 義久の息子は伯父の源行家を頼り、熊野へ向かう。 源平の騒乱の後、源氏の世になり、義久の息子の義邦は若狭守として弦島城に戻り、その後、福良氏を称し、子孫は弦島城主として室町時代末まで在城。
※  福良敬之氏著の「清和源氏福良一族補遺」では、源義嗣は源為義の五男、源頼仲の子であり、また源義久は源為義の四男、源頼賢の子である。 つまり、源義嗣と義久は従兄弟同士であったと書かれている。
・ また、室町時代に岡之城主に福良氏がいる。


・・・参考資料・・・

※ 表1〜5、図1は、
「史上最強カラー図解 古事記・日本書紀のすべてがわかる本 ナツメ社」より引用


























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