西暦 |
年号 |
事 項 |
紀元前
12,000頃 |
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淡路で有舌尖頭(石やり)が使われる。(淡路に人が住んでいた) |
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縄文時代 |
備前町より戎町に至る海岸で、縄文式土器破片が見つかる。 |
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淡路市浦佃遺跡 |
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弥生時代 |
備前町、原田、仁尾などで弥生式土器、サヌカイト(石器の材料)が見つかる。 |
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(福良では縄文・弥生時代にかけ、海人族が生活していたと推測できる) |
前300頃 |
弥生時代 |
洲本市宇山武山遺跡 |
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南あわじ市上幡多〜下幡多幡多遺跡 |
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洲本市下内膳下内膳遺跡 |
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淡路市黒谷五斗長垣内遺跡 |
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古墳時代 |
八幡神社境内古墳、鷺森古墳より土器が見つかる。 |
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福良小学校敷地造成工事現場で柱根30本が見つかる(昭和7年)。 |
416 |
允恭天皇5 |
日本書紀に記載された初めての地震。福良の居神に津波の被害か。 |
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南あわじ市市新〜三條木戸原遺跡 |
600頃 |
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南あわじ市阿那賀伊毘沖ノ島古墳群 |
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新羅渡来人が居住か。(新羅→白木、高麗津谷→小松谷などの地名の起源?) |
645 |
大化 元 |
大化の改新 |
646 |
大化 2 |
東本町に、南海道の馬宿を置く。(駅馬) |
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向谷の潟上(片上)から、福良撫養間の船が出入する。船宿旅宿あり。 |
710 |
和銅 3 |
平城京に都を遷す。 |
764 |
天平宝字8 |
淳仁天皇淡路に移される。この頃、淡路国分寺ができる。 |
785 |
延暦 4 |
早良親王、淡路に流される途中に死亡する。 |
794 |
延暦 13 |
平安京に都を遷す。 |
845 |
承和 12 |
明石・岩屋間に渡舟が通る。 |
859 |
貞観 元 |
僧行教が宇佐八幡の分霊を奉じ、京都男山に至る途中、福良浦に寄って |
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福良八幡神社を創祀したという伝承。 |
940 |
天慶 3 |
藤原純友が淡路の国府を襲う。 |
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(平安中期) |
和泉式部(978年頃 - 没年不詳)が鏡ヶ渕に立ち寄ったという伝承。 |
999 |
長保 元 |
淡路の百姓の訴えで淡路守讃岐扶範が解任される。 |
1183 |
寿永 2 |
源義久、弦島城で能登守(平教経)と戦い、滅ぼされる。(射切石の伝説) |
1184 |
寿永 3 |
一の谷の戦い 福良で敦盛の首が荼毘に付される。 |
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第81代安徳天皇の行在所を福良湾内に置く。 |
1221 |
承久 3 |
承久の乱が起こる。 |
1223 |
貞応 2 |
淡路国大田文が作られる。(「福良庄、田廿町、畠、浦一所」とある) |
1289 |
正応 2 |
時宗の開祖一遍上人の淡路遊行。阿波より福良ヘ渡る。 |
1340 |
暦応 3 |
足利尊氏の命により、阿波守護細川頼春の弟、細川師氏が淡路攻略のために大軍を率いて福良に渡る。鳴門岬の笹山にて軍馬を降ろす。
「馬降ろし」「筏おろし」という地名が残る。 細川師氏が立川瀬の戦で宇原兵衛らを破り、養宜館に入る(淡路守護)。 |
1350 |
観応 元 |
足利氏が安宅氏に沼島の南朝方水軍退治を命ずる。 |
1467 |
応仁 元 |
応仁の乱が始まる。 淡路守護細川成春は東軍に従う。 |
1519 |
永正 16 |
淡路守護細川尚春が阿波の三好氏に殺され、養宜館が滅ぶ。 |
1526 |
大永 6 |
安宅氏が洲本城を築く(一説に永正7年・1510年)。 |
1543 |
天文 12 |
ボルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝える。 |
1575 |
天正 3 |
福良八幡神社本殿(県文化財)が上棟される(棟札が現存)。 |
1581 |
天正 9 |
羽柴(豊臣)秀吉が淡路の安宅氏を滅す。 |
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天正の頃 |
阿万本庄の城主、郷氏が沼島の梶原氏と戦い破れて、福良に隠れる。 |
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(その後、密告により殺害され、郷殿神社に祀られる。) |
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四国討伐のため、秀吉8万の軍勢が福良より撫養に渡る。 |
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桐原刑部、大坂城の築城にあたり、鳴門の石を切り出すよう命じられるが、これに服さず切腹を命じられる。(刑部の兄弟、桐野原伝右衛門との説もある。) |
1585 |
天正 13 |
脇坂安治が洲本城主、加藤嘉明が志知城主となる。 |
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この頃、福良の人口は1,000人強、200軒程であったと推定される。 |
1586 |
天正 14 |
天正大地震で蛇の鰭と洲崎の砂州が切れ、洲崎が島となる(一説に宝永大地震で)。
この頃、岡之城城主森崎中豊の長子、森崎四郎衛門英貞(後の十一屋伝右衛門)が福良を治めていた。 |
1591 |
天正 19 |
道元和尚が福良智光山遍照院を開山。(後に遍照院は報身寺と改称) |
1592 |
文禄 元 |
文禄の役。 脇坂水軍が閑山島海戦で朝鮮水軍に敗れる。 |
1592〜97 |
文禄の頃 |
森崎伝右衛門が加藤嘉明に従い、文禄の役に参加する。 |
1596 |
文禄 4 |
讃岐の岡田真之介を施主として、重恩寺が開山。 |
1600 |
慶長 5 |
関ケ原の戦い |
1610 |
慶長 15 |
姫路の大名池田氏が淡路を領有する。 |
1614〜15 |
慶長19〜20 |
大坂の陣 福良より森崎、萩原などが大坂の陣に赴く。 |
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戎町に代官所があり、仮屋敷とする。 |
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飛田某が波止の浜(新波戸)を築く。 |
1615 |
元和 元 |
御番手 阿波の大名蜂須賀氏が淡路を領有する。 |
1620 |
元和 6 |
福良八幡神社拝殿が建立される。 |
1625 |
寛永 2 |
真光寺の本堂が完成する。 |
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この頃、蜂須賀氏の城代家老稲田氏が淡路に赴任する。 |
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福良には、十軒家に御屋敷、洲崎に番所がそれぞれ置かれた。 |
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この頃、飛田氏が指揮して、東一丁目から五分一町までの町割を行う。 |
1627 |
寛永 4 |
淡路総検地 |
1637 |
寛永 14 |
嵯峨宮二品尊性親王より「慈眼寺」の寺名を賜る。 |
1649 |
慶安 2 |
福良浦人口633人 戸数310 (三原郡福良浦棟数人数改御帳) |
1673 |
延宝 元 |
淡路の各村の棟付改帳を作られる。 |
1674 |
延宝 3 |
坂東半左衛門了空が干拓工事を開始する。(1699年に完了) |
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元禄の頃 |
この頃、新道を築き、道路ができる。 |
1697 |
元禄 12 |
『淡国通記』(碧湛)が刊行される。 |
1707 |
宝永 4 |
宝永大地震 煙島の紅蓮寺が津波で流滅する。蛇の鰭より洲崎へ続く部分が切れ去る(一説に天正大地震で)。 |
1730 |
享保 15 |
『淡路常磐草』(仲野安雄) |
1771 |
明和 8 |
平瀬平助が福良浦で〆油業を創業する。屋号を「太平」とした。 |
1782 |
天明 2 |
広田宮村を中心に縄騒動が起こる。(福良は縄の積み出し港) |
1834 |
天保 5 |
賀集a平が陶器製造を始める。 |
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この頃、福良の家数978軒。(味地草) |
1837 |
天保 8 |
飢饉に加え、コレラが流行し、福良では人口約3,300人の内、約1,300人が死亡する。 |
1838 |
天保 9 |
コレラの流行が収まり、7月には幕府の巡検使が福良に来る。 |
1845 |
弘化 2 |
福良で素麺製造が始まる。 |
1854 |
安政 元 |
南海大地震。由良と岩屋に砲台築造を始める。 |
1855 |
安政 2 |
煙島に最勝王経の石碑を建立する。 願主は野上正武氏。 |
1862 |
文久 2 |
福浦元吉が大坂で勤皇活動をする。 |
1863 |
文久 3 |
津井村の古東領左衛門が、天誅組の討幕運動に参加して敗れ捕えられる。 |
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福浦元吉が天誅組に参加し、戦死する。 |
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西暦 |
年号 |
事 項 |
1869 |
明治 2 |
版籍奉還・禄制改革 |
1870 |
明治 3 |
庚午事変が起こる。 |
1871 |
明治 4 |
廃藩置県。 淡路は名東県に入る。 |
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稲田氏家臣が北海道静内に集団移住する。 |
1872 |
明治 5 |
福良郵便物取扱所が開設される(初代所長は泊宇平氏)。 |
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この頃、福良の人口は5,606人、戸数1,015軒 (淡路の人口160,906人) |
1873 |
明治 6 |
福良循誘小学校が神宮寺跡(現在の「老人憩の家」)に設置される。 |
1876 |
明治 9 |
淡路は兵庫県に編入される。 |
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「明九橋」が太子屋分家、平瀬守一郎氏の寄贈によって建造される。 |
1878 |
明治 11 |
静岡県春野町本宮より福良秋葉神社を勧請する。 |
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世界的な規模でコレラが大流行する。福良循誘小学校が30日間休校する。 |
1883 |
明治 16 |
仲之町に福良浦戸長役場ができる。 |
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住吉町、谷川町、戎町、仲之町に布団壇尻がつくられる。 |
1884 |
明治 17 |
火災により慈眼寺の堂宇が焼失する。(明治15年説もあり) |
1887 |
明治 20 |
福良循誘小学校が4年制の簡易小学校を併設して、「福良尋常小学校」と改称される。 |
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明治20代 |
福良の有志によって「おのころ汽船」(1924年に阿淡汽船となる)が設立され、福良・撫養間定期就航 |
1889 |
明治 22 |
賀集の田中正平博士がドイツで純正調オルガンを発明する。 |
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戸長制度が廃止され、町村制度が施行。初代福良町長は岡田長七郎、 |
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二代は泉甚五郎。 |
1893 |
明治 26 |
伊賀野で賀集a平の興した淡陶社が、淡陶株式会社としてタイルの生産を開始する。 |
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福良漁業組合設立 |
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福良−洲本間に馬車が開通する。(1日3往復で、運賃は50銭) |
1894 |
明治 27 |
日清戦争が起こる。 洲本に淡路紡績株式会社が創立される。 |
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陸軍工兵隊が由良と鳴門岬に要塞建設を開始する。 |
1895 |
明治 28 |
慈眼寺が再建される。 |
1896 |
明治 29 |
二丁目の現福良財産区駐車場敷地に、福良小学校が新築される。 |
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この頃、福良の人口は6,000人強、1,000軒程(福良古事記) |
1897 |
明治 30 |
鳴門要塞が完成する。 |
1900 |
明治 33 |
大阪商船(関西汽船の前身)が大阪・甲浦航路を運行し、福良と沼島に寄港 |
1901 |
明治 34 |
桝井座(福良劇場)ができる。 南納屋町に席亭「宝來座」ができる。 |
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(宝來湯の前身) |
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波止の浜に道路標柱が建てられる。 |
1904 |
明治 37 |
日露開戦 由良要塞の所属船が旅順港封鎖作戦に出動。 |
1907 |
明治 40 |
西川藤吉が福良余百海岸で真珠養殖を始める。 |
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西暦 |
年号 |
事 項 |
1913 |
大正 2 |
福良に電燈事業所が設置され、初めて電燈が点く。 |
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福良に電話が初めて通じる。 |
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福良に靴下工場ができる。 |
1914 |
大正 3 |
第一次世界大戦始まる。 |
1918 |
大正 7 |
淡陶株式会社福良工場ができ、タイルの生産を開始する。 |
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福良の人口 6,554人(男3,289、女3,265)、戸数1,330 (福良町誌) |
1919 |
大正 8 |
乗合自動車が初めて通る。(福良−洲本) |
1921 |
大正 10 |
淡路自動車会社ができ、洲本−福良の間にバスが通る。 |
1922 |
大正 11 |
淡路鉄道の洲本−市村間が開通する。 |
1925 |
大正 14 |
淡路鉄道が洲本・市村・福良間で全線開通する。 |
1926 |
大正 15 |
東本町に福良警察署ができる。それまでは戎町に洲本警察福良分署。 |
1931 |
昭和 6 |
満州事変 |
1934 |
昭和 9 |
小学校が現在地に移転、竣工する。 |
1937 |
昭和 12 |
日中戦争が始まる。 |
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福良町水道が完成し、給水が始まる。(原田水源地) |
1938 |
昭和 13 |
築地の埋立地ができる。 |
1940 |
昭和 15 |
福良保育園ができる。 |
1941 |
昭和 16 |
太平洋戦争が始まる。 |
1945 |
昭和 20 |
8月15日終戦 |
1947 |
昭和 22 |
日本国憲法が施行される。 農地改革が進む。 |
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6・3制義務教育が実施される。学制改革により中学校ができる。 |
1948 |
昭和 23 |
福良公民館が、現在の児童館敷地にできる。 |
1951 |
昭和 26 |
三原保健所が、現福良財産区二丁目駐車場敷地にできる。 |
1954 |
昭和 29 |
明石・岩屋、福良・鳴門間のフェリーボートが就航する。 |
1955 |
昭和 30 |
福良町が町村合併して、南淡町になる。 |
1957 |
昭和 32 |
旧南淡町本庁舎が向谷にできる。 |
1963 |
昭和 38 |
鶴島に南淡路国民休暇村ができる。 |
1965 |
昭和 40 |
南淡路有料道路阿那賀線が開通する。淡路フェリー鳴門線が就航する。 |
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児童館ができる。(現シルバー人材センター) |
1966 |
昭和 41 |
国道28号線の改修が完了する。 淡路交通電車線が廃止される。 |
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旧福良中学校前に埋立地ができる。(現在の浜町) |
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居神埋立地ができる。 |
1969 |
昭和 44 |
南淡路有料道路(うずしおライン)が全線開通する。 |
1980 |
昭和 55 |
南淡(福良)公民館ができる。 |
1983 |
昭和 58 |
南淡中学校が開校する。 |
1984 |
昭和 59 |
国道28号福良バイパスが開通する。 |
1985 |
昭和 60 |
大鳴門橋が開通する。 |
1995 |
平成 7 |
阪神淡路大震災が起こる。 |
2001 |
平成 13 |
福良港臨港道路(ちりめんロード)が全線開通する。 |
2005 |
平成 17 |
旧三原郡4町が合併し、南あわじ市となる。 |