【藪家井筒屋の人々】
藪 華蔵は、寛延2年(1749)、福良で生まれた。 藪家井筒屋は、代々保命酒という白酒を醸造販売し、井筒屋文之助ともいう。 幼時より慈眼寺住職成信に書を習い、長じて京師に遊び、書家永田観鵞の門に入り、鵞堂門の書法を極め、硯を摺って摺りまくり、硯の裏まで抜いたという。 大変な能書家で弟子も多く、福良の魚売りは郷中の農家で手紙の代筆を頼まれたという。 俳句も堪能で、当時、淡路の多くの俳書・句集にも彼の句が見える。 例えば、慈眼寺の釈一千と共に「かめのかみ」を、また「貫珠篇」にも出句している。 生来、病弱で、出不精で名利に超然として、家に在って字を書き、書を読み、句作をした。 没年は文化6年(1809)で、還暦の歳である。 墓は慈眼寺にあり、碑の撰文の最後に「那波績撰」とある。 那波氏は、当時の徳島藩のお抱え学者で、生前二人は格別の親交があった。
華蔵の長男、襄八は古書の記述から推定すると、寛政元年(1789)の生まれであろう。 通称襄八または和蔵、名は徴、字は永年、永季、竹水と号す。 能書家の父の名を汚すことのない位、彼も書をよくし、学識もあって、父と同様、大勢の弟子に習字の他、学塾を開き、町の商人・漁師・子ども等を教育した。襄八は生まれつき吃る癖があって、外へ出たがらず、家にあって習字・作歌・書物に親しむ風があった。
墓石は父華蔵と並べて慈眼寺にある。 碑文は華蔵碑の撰文者那波績の息稀願で、襄八は生前那波希願とも親交があった。 「名書は独りならず、行は郷里を称す。 命はこれ天にあり、一病にして起たず。 寿は避(かえ)らずと雖も、全て無恥に帰す。 賢婦節を守り、遺孤に奉祀す。 嗚呼永年、以て死すべし。」(一部抜き書き、漢文を読み下し分とする。) 襄八の石碑は亀の脊に乗っている。
藪明山は、大阪長堀にて嘉永6年(1853)、藪長水(画家)の次男として生まれた。 本名は政七で、陶斉、明山を号とする。 7才の時、福良の藪本家の嗣子となり、福良に住む。 長じて伊賀野のa平焼に関わった。 明治初年、大阪に移住。 その後、東京で薩摩焼風の陶画技術を学び、大阪に帰り、陶器描画場を開設する。 細巧緻密な描画が評判となり、明山焼として米国向けの輸出が激増する。その後、パリ万国博、セントルイス万国博、日英博覧会、内国勧業博等々、幾多の展覧会に出品し、その都度数々の受賞が続き、明山自信も再々洋行して活躍した。 彼自身は敬虔なキリスト教徒で、浪花基督教会理事にも就任した。 昭和4年と7年に、昭和天皇の大阪行幸の際、行在所と大阪府立商品陳列所で、天覧を賜った。 昭和9年5月に82年間の生涯を閉じた。
藪 華蔵・襄八の碑(慈眼寺) 藪 明山(大阪歴史博物館HPより)
藪 明山の作品 「富士・藤・孔雀図大花瓶(大阪歴史博物館蔵)」
【山口吉十郎】
天明4年(1784)福良浦里正(庄屋職)の家に生まれ、父吉兵衛も風雅の人で蘭水また楚調と号す。 通称は吉十郎、名は之謙。 字は君亭、敏樹(俊樹)、睦斉、号は南浦、江亭、藻川、室名は明楽園、聞香舎、寧楽園という。 幕末期、福良の生んだ代表的文人で、和漢の学に通じ、京・大阪にも往来して、広く名流や名家と交わり、また多くの門弟を数えた。 福良の町を歩くとき、横笛を吹きながら歩いたので、子ども達は笛先生と親しんだ。 寛政10年(1798)、洲本学問所が開設され、藤江石亭に就いて学問に励み、文化9年(1812)に頼山陽が来島され、石亭を介して山陽に拝謁して、学問の深さに強く打たれ、山陽もまた吉十郎の向学心を強く感じた。
その後、石亭の紹介で篠崎小竹にも師事して勉強に励んだ。 また度々、京、大阪と、山陽、小竹の他、本居太平、富樫広蔭、竹内確斉、緒方洪庵、大江広海、大国隆正、加納諸平、萩原広道などの学者の大勢と交流した。
文化14年(1817)、幕府は全国諸藩に「諸国風俗問状」を発し、これに対して洲本藩庁から「淡路風俗問状の答」の執筆者として、吉十郎が指令を受けて作文提出した。 この時、淡路における他の執筆者は津名郡内田村渡辺弥三右衛門(月石)、同郡安坂村多田包助、三原郡志知村船越与一右衛門(月橋)であった。
天保11年(1840)、大阪で、家塾聞香舎塾を開き、子弟を教育した。 弘化3年(1846)、いったん福良に帰ったが、その後また思い直して学問大事と大阪へ引き返す等、若干、心がいろいろに乱れた。 安政4年(1857)、再び福良に戻り、聞香舎塾も福良に移し、多くの子弟を教育した。 鈴木重胤にも大変敬慕され、代表的な門人として賀集a平、倉本楽山、久保田南里、武田萬太夫などがある。
福良から湊に居を移し、別荘江亭に住んで自適の生活のあと、安政6年没、享年75歳という説と、慶応年間に再び福良恋しと帰養して、80歳の高齢をもって没したという説もある。
歴代山陵の荒廃を嘆き、修理の道を朝廷に建白をするの他、彼の著を列記すると、「浪華尚歯会記」、「淡路国名所旧跡考」、「神国紺珠或聞」、「聞香舎文集」、「淡路廃帝山陵二所考」などがある。
慈眼寺に夫婦の墓石があるが、逆修墓(生前、彼自身の建てた墓)で、弘化3年4月16日との刻字がある。
山口吉十郎夫妻の墓(慈眼寺)
【萩原伊平】
萩原伊平、号を半翠という。 半翠の雅号の由来は福良港に浮かぶ煙島が水面上、半球の翠の景観によるという。 自著によれば、「萩原家の先祖は萩原六之助で志知城主野口家の浪人で、福良に移り、慶長の頃より住す」とある。 また、家伝によれば「鍵屋萩原家は江戸幕府七代将軍家継、正徳年中で、代々伊平を襲名」とある。 本項伊平は文化11年出生。 弘化3年六代目伊平として相続した。
鍵屋の屋敷は、現在、東一丁目上町の山側南面の西端であるが、昔はこれを含む東一丁目いっぱいの続き屋敷の商家であった。 本項、伊平時代の業種は、綿や紙その他を手広く商い、福良、淡路のみならず兵庫から播州へも出張取引があったという。 生来、好学の人で、趣味も広く多くの文人墨客と交流し、明治19年4月隠居の後は、文字通り福良旦那衆として豊かな生涯を送った。 頼山陽も藤本鉄石も来島されて交わったという。
福良は昔から記録の少ない土地という中で、今でいう福良の郷土史家として「福良旧記」「福良古事記」の大著を残された。 いずれも美濃紙に達筆で書かれている。 明治32年10月26日没、戒名は戒誉香禅定門、享年86歳。
辞世の歌は「散るものとかねては思い知りながら きょう吹く風のなきと思えば」
「福良古事記(複写)」
【平瀬與一郎】
太子屋平瀬家は諸説あるが、徳島藩蜂須賀候の縁で福良に住し、代々の豪商であった。 父の11代(6代とする説もある。)守一郎は中興の祖で、如舟と号し、福良原田川上町の石造の橋を中心となって架けた。 明治9年架設のため「明九橋」という。
12代(7代とする説もある。)與一郎は介堂と号し、安政6年生まれで、年少より向学心強く地頭方村の沼田存庵の塾で学び、当時としては新しい学問に励んだ。
生来、病弱で、明治20年、29歳の時、家業を業種別にそれぞれ有為の使用人に譲り、名医の居る京都に転住した。 京都では豊富な資金で家畜や植物類の他、外国商品の輸入など各種事業を営んだ。 傍ら、存庵塾で学んだ生物学への思い入れから、貝類の研究に没頭することになったが、この決心は明治30年、39歳の時であった。 そのきっかけは、当時同志社大学博物学教授マーシャル・ゲインズとの出会いであった。 新しい貝類の発見も1千種以上にもなるが、学名に「ヒラセ」の名を冠したものも数十種あるという。 その間、論文著作を出し、明治40年、日本最初の「介類雑誌」を発行し、大正2年、集めた貝類数万点の展示公開のため、京都岡崎に「平瀬介館」を新設公開した。 これらの整理の助手をした数名の淡路の青年の中に、福良出身で、後に、京都大学理学博士となる若き黒田徳米がいた。
当時の皇太子(昭和天皇)の台覧の他、学者名士の来館で賑わったが、その後、第一次世界大戦の経済不況で縮小、続いて閉館となった。 残された標本は、一組は同じ貝類学者となった子息信太郎に、一組は帝国博物館へ、一組はアメリカワシントン国立博物館へ贈られたが、残った標本は全部戦災で焼失した。
與一郎は大正14年病没、享年67歳。 後年、貝類学研究に多大の功績ありとして、黄綬褒章を受章した。
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上 平瀬介類博物館(Wikipedia)
左 平瀬與一郎(Wikipedia)
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【黒田勝吉】
明治18年7月11日、福良の魚問屋善平の四男として出生。 明治39年3月、御影師範学校を卒業し、各地小学校教員を歴任。 市、津井、神代の校長を最後に引退して、昭和17年4月、求められてタイル製造の淡陶会社総務担当として入社する。 大阪支店勤務中、タイル販売株式会社旭タイル商店が財務不良のため、これを子会社として取締役支配人となり、やっと軌道に乗せたところで戦災で丸焼けとなり、これを解散し、再び淡陶会社福良工場勤務となる。
昭和23年3月、同社を円満退職して、福良宮ノ下で悠々自適の隠居生活に入る。 昭和21年創業の長男黒田善一郎社長の黒田電気株式会社の監査役となるも、実質は雑俳人生として余生を送る。 雑排名を白雨という。
雑俳は江戸時代から淡路に伝わる短詩型文芸であるが、勝吉は堅い教員生活の中でも特に巷間の下条に通じ、人生の機微にも明るい通人で、句作一年で淡路雑俳界のリーダーの貫録を示し、雅交会の選者として宗匠の称号を贈られ、かつまた、子どもたちの親孝行を受けて、幸せな悠々たる人生を送ったのも、彼自信の才能と高潔な性格の賜であろう。 作品の傑作を句碑に残す計画を聞き、これを固く断わり続けたのも、明治の気骨を示した、優れた高潔な人格の故であろう。
昭和37年、南淡町が全国に先駆けて国民休暇村誘致に成功するや、これを喜び多額の寄付をされて、敷地内に「黒田園」を造られるなど、南淡町に対する再々の物心の郷土愛を町民の範として、南淡町名誉町民に推され、その他紺綬褒章も受けた。
最後は長男善一郎宅にて、昭和48年12月19日逝去。 戒名は正覚院白雨浄光居士、享年89歳。
城一つある 町の落ちつき
裾模様 盲目の母撫で
密航続く日本よいとこ
税務署へ悪い服着て行き
無遠慮に悪友と呼び仲がよい
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慈眼寺山門前石碑(黒田善一郎氏寄贈)
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【能勢敬三】
今、「ダントーHD株式会社」という。 しかし、福良では「淡陶会社」の方が馴染みがよい。 淡路生まれ唯一の1部上場企業である。
古き良き昭和往時の福良の名物は、何と言っても「淡陶の通勤自転車行列」であった。 毎朝8時前と毎夕5時過ぎには、千台近い通勤自転車が列をなして、福良の狭い道路を占拠(?)していたものであった。
明治18年、「淡陶社」の設立以来、a平焼の流れを汲んで器物中心の製品から、時代の要請を受け、徐々に内装タイルの生産へと移行していったが、当時は湿式成形で、欧米の製品に比べて難があったが、明治41年に、技術者の能勢敬三が乾式成形製法を不二見タイルの村瀬二郎麿と共に、我が国で最初に開発し、内装タイルの高品質化と量産化の達成を可能ならしめた。 これを受けて、新工場建設の機運が熟し、明治41年、仁尾の陸軍重砲兵隊練兵場跡に能勢敬三を支配人として、建設に着手し、大正7年、タイル専門の福良工場が完成し、自ら工場長となり、北阿万の本社工場と併せて操業することとなった。
製品の特長は、表面に凹凸のある華やぎのデザインタイルで、好評を博し、国内を始め広く海外まで輸出していた。 これはa平焼の伝統を受け継ぎ、更に進化させたものであり、「エンボスタイル」と呼ばれ、彼のタイルづくりへの情熱の賜であった。
福良工場の操業は、約千人の雇用となり、福良の町は沸き立つような活気に満ち溢れた。 福良小学校の運動唱歌に、「さては工場に立ち上がる いわきの煙 空をつき 海陸ここに 歩を合わせ 町は富みたり 商工業」と淡陶のことが唄われている。
デザインタイルいろいろ
【久留米竹平】
竹平は画号。 滝吉と称し、明治20年10月8日福良で出生し、玄人はだしの絵を描き、能書家で、焼き物、俳句雑俳などの旦那衆雅友と一生風雅の付き合いをした。
若年に上京、東京電気学校に学び、電気主任技術者試験に8番目の成績で合格し、古河電線株式会社に就職したが、幼児より画才に恵まれ、傍ら日本画家柳田斗墨先生に就いて修行する。 その後、福良出身の鈴木彦次郎が大阪で鈴木合金製作所を創立し、電気技師として迎えられ、大阪へ行く。 大阪でも日本画の大家矢野橋村の門に入門し、ますます日本画に熱中する。 晩年「わしゃ、電気と絵の両方をやったので、どっちつかずになった。」が口癖であった。 福良へ帰り、淡陶会社、次に福良電灯会社の電気技師を経て、電気工事店を開店する。
忙中閑、益々日本画の腕を上げ、かなりの軸、扁額、色紙、短冊、画帖を残し、求められて現在愛蔵する人も多い。 齠c善九郎氏の主催する忘吾園に誘われて、増田千代松と共に、絵付けは勿論、焼き物にも精を出し、幾多の作品を残した。 これらの中で「福良絵図」の大冊は圧巻として有名である。
水墨淡彩で、一応これで福良のほとんどの風景が美しく描かれ、その一枚々々に達筆な添え文が素晴らしい。 この説明文は黒田白雨と宮崎正範の教示を受けたと書いている。
慈眼寺南岳大雲師の「久留米竹平別所図鑑に寄す」というのがあって「・・・功績偉大讃嘆惜まず一言蕪辞を綴ること斯くの如し・・・」という賛辞が添えられている。
昭和44年5月22日没、享年82才。 戒名は清徳院釈龍圓位という。
久留米電気店(平成27年10月撮影)
【菅井雲樵】
雲樵は画号で、通称は圭介。 明治22年9月14日、福良で生まれた。
子どもの頃から絵がうまく、学校の先生に「大きくなったら絵描きになるのか」と聞かれて、「うん」と答えた。
東京に出て、森脇雲溪の門に入り、日本画を学び、花鳥山水が得意で、師の一字を頂き雲蕉と許された。
日本美術協会に所属し、戦前、旧満州国皇帝溥儀来日の際、御前揮毫した。 秩父宮殿下が大変彼の絵がお気に召し、再々御殿に伺候し、数点お買い上げ、殿下から兄君、昭和天皇にも献上された。
「翼よ、あれば巴里の灯だ」の映画で有名なリンドバーグ来日の時、日本政府の名において雲樵の絵を差し上げ、彼が帰米後、サイン入りの写真と礼状を贈られた。 越前永平寺にも、腕を揮った格天井の絵があるという。
雲樵は郷里福良を懐かしみ、再々帰郷し、旧知と語り合い、たくさんの絵を残した。 慈眼寺庫裏の玄関に大きな衝立があって、表に富士の絵、裏に竹に雀の絵がある。 旧福良公会堂に、それより大きな衝立に勇壮華麗な孔雀の絵があったが、子どもの悪戯で破られ、また、日本間に彼の掛け軸があったが、公会堂解体の時行方不明になった。
昭和53年3月16日、家族、門弟に看取られながら東京で大往生。 法名を円光院桂山雲樵という。
菅井雲樵の作品 「東海 神岳」(慈眼寺)
【中原清隆】
中原清隆は明治23年、福良の海産物問屋の長男として生まれた。 生来絵が好きで、両親も了解して京都の関西美術院に入学し、特に鹿子木孟郎に師事した。 その時、陶芸と調理の北大路魯山人とも親しくなった。 その後上京、水彩画会に入り、石井柏亭、白滝幾之助に学ぶ。 学資や生活のため、新聞配達、料亭の下足番、人力車々夫、夜なきそば屋など、割合気楽にアルバイトして勉強した。
彼の画風は感情や動作を表現するため、当時の自然主義、写生主義に反し、受け入れられなかった。 そんな時、独立美術協会が誕生し、その協会の阿佐ヶ谷研究会の発会式に招待され、以来、里見勝蔵、児島善三郎、林武、三岸好太郎、高島達四郎などと親交を重ね、十数回の独立展に出品して、いよいよ頭角を現す。
画家の他、余程商才があったのか、生活が豊かで、彼のアトリエを綜合研究所として、常に数人の青年画家の面倒をみた。 こんなことから、他の先生方と協力してできたのが、有名な新制作派協会で、それから順々に、文化美術とか、行動美術と新しい美術運動が出てきた。
昭和13年、陸軍情報部の委嘱で従軍画家として活躍したが、敗戦により戦災を受け、無一文になり、有縁の人の好意で飛騨高山から、その後夫人の郷里に近い瀬戸市に移住した。 高山時代から彼の主唱する流動美術に熱を入れ、瀬戸市の陶芸家と知り合い、紙やキャンバスによる他、粘土を媒体とする陶磁への新しいジャンルに入り、平面描写から立体的な陶磁による造形へ進展して行く。 しかし、時々彼の頭に去来する郷里福良の山や海、遊んだ幼友達を想い、望郷の念に誘われて、再々福良へ帰った。 そんな中で、「鳴門海峡」「農夫と牛」「灘の娘さん」「漁業風景」「網つくり」「福良の港」「先山遠望」「由良の港」などの作品が生まれた。 福良でも、これら彼の作品を所蔵する人も多い。
具象より抽象という彼の作品のなかで、先山千光寺にある永田秀次郎先生の肖像画はかなり写実的である。
昭和37年12月11日、瀬戸市で没した。 享年73才。 法名を流動菴美山是清居士という。
中原清隆 永田秀次郎の肖像画(複写)
「黒潮の娘」
【鶴澤友路】
本名は宮崎君子、大正2年12月19日福良で生まれた。 子どもの頃から勝気で、浄瑠璃好きの両親の影響を受け、早くから三味線に魅せられ、5歳の時、淡路人形浄瑠璃上村源之亟、市村六之丞、吉田傳次郎各座の巡業で舞台に出演した。
大阪に出て野澤吉童師に入門、内弟子となり、竹本東広師、豊澤広助師などの指導を受け、昭和8年、ラジオ徳島に出演した。
昭和11年、三味線界の宗家、鶴澤友次郎師の内弟子となり、その後は淡路と大阪を往来し修行に努め、竹本小仙師、野澤吉弥師、竹本染登師、鶴澤寛治郎師、竹本綱太夫師にも学び、遂に昭和16年、宗家から「もうお前に教えることはない」と友次郎師匠の一字を頂き、「鶴澤友路」を拝命した。
その前、昭和15年から福良の自宅でも内弟子をとって大勢の育成に努めた。 昭和26年、大阪四ツ橋文楽座にて竹本三蝶の相三味線を務め、宝塚大劇場、京都南座、大阪旭座、三越劇場、東京国立劇場等で、当時第一人者の相三味線にも出演した。
昭和28年、弟子の会「友路会」を結成して、淡路素義審査会、日本素義振興会などで活躍をした。 また、福井子供会、市小学校、三原中学校、南淡中学校、三原高等学校などの人形浄瑠璃部での後継者団体の指導や淡路人形座の若手座員の指導にも励み、多くの人材を育て、自らも出演して人気を博した。 昭和47年には天皇皇后両陛下の御前で公演、昭和49年、日本顕彰会の表彰を受けている。 その他、淡路人形座は世界各国への海外公演を毎年のように行って、友路師匠もその殆どに参加し、言葉の違う外国人に多大の感銘を与えた。
昭和59年、芸能団体半どんの会受賞、兵庫県文化賞受賞、昭和61年重要無形文化財義太夫節保持者に認定された。 更に、平成7年文化庁長官表彰、平成8年伝統文化ポーラ賞特賞を受け、遂に平成10年重要無形文化財義太夫節三味線保持者、いわゆる人間国宝に認定された。
本年、101才。 今もなお、元気に後継者の育成に励んでおられます。
鶴澤友路
人間国宝認定顕彰碑
※本資料は、次の文献資料を参考に、または、その他の資料の提供を受けて、作成しました。
ありがとうございました。
「南淡町人物誌(南淡町教育委員会発行)」、「福良むかしむかし(前田勝一著)」、「ウィキペディア」、「近代日本陶業発展秘史(伊勢本一郎著)」、「日本のタイル文化(淡陶株式会社発行)」「日本のタイル工業史(株式会社INAX発行)」、「ダントーHD所蔵写真」、「木下道子氏所蔵写真」、「南あわじ市滝川記念美術館玉青館所蔵写真」、「淡路人形座所蔵写真」、その他の写真は南岳利英級長の撮影による。
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