【全体の展示テーマ】
「福良の昭和写真館」〜のどかで、元気のあった福良
【出展品目及び点数】
時代描写写真 12点(写真B4、額装A2)
【出展の趣旨・あいさつ】
ようこそ「福良の昭和写真館」にご来臨いただき、ありがとうございます。
福良学教室は、平成23年度から開設の「瀬戸の潮みず交流広場」事業の一環として、多くの方々の参加を得て、福良の歴史や文化を中心とした「何でも学」を通して、福良への誇りと愛着を育み、もって地域自慢のできる人を増やし、地域の活性化や豊かなふれあいを図る教室活動を行っています。
今回は、その学習成果の発表も兼ね、「福良の昭和写真館」と題して、昭和の福良を懐かしく偲べる写真を学級委員会で持ち寄り、選定のうえ、ここに展示いたしました。 ご高覧のうえ、かつての福良ののどかさや元気に触れて、懐かしんでいただければ幸いに存じます。
なお、ほとんどの写真は学級委員が撮影或いは所蔵のものを展示いたしておりますが、何点かは作者が判らず、当該写真が多くの人に見てもらえる良い機会になればとの勝手な判断をし、断りなく展示させていただいています。 どうか、ご容赦をお願いいたしますと共に、作者が判ればと思っていますので、ご連絡をお願いいたします。
それでは、ごゆっくりとご鑑賞ください。
平成26年11月22日
瀬戸の潮みず交流広場 福良学教室学級委員会
南岳利英、徳田壽春、村野保司、小池春六
中西英夫、富永博雄、太田良一
展示写真
■上町の町割り跡(昭和3年撮影)
大橋(明九橋)から一直線に八幡神社を望む。江戸初期、徳島藩によって、一丁目から五分一町まで町割り(区画整理)が行われ、上町はこの当時も、現在も、店や家の構えは違えど、一直線のメインストリートである。
■敦盛祭りの舟橋(昭和16年4月8日撮影)
煙島には、平敦盛の首塚が祀られている。福良の人びとは紅顔の若武者の死を哀れみ、毎年4月8日に敦盛祭りを執り行い、仁尾から煙島まで漁船を並べ、板を敷き、お神輿が渡御していた。この祭りは昭和16年で途絶えてしまった。
■厳寒の素麺づくり(昭和29年厳寒期撮影)
素麺づくりは、江戸期に大和の三輪(奈良県桜井市)から福良に伝わり、戦後復興の中、約50軒の製造家を誇る一大地場産業となり、厳寒期を中心に、製造が盛んに行われた。(主銘柄は、「御陵糸」。往時の最大生産量は、年間約5万箱)
■淡路島一周駅伝(昭和31年2月撮影)
昭和23年から昭和39年までの毎2月、淡路島一周西日本府県対抗駅伝大会(10区間、128.0q、由良S〜洲本〜岩屋〜阿那賀〜福良〜洲本G)」が行われ、福良にも東一丁目に中継所が置かれ、町中の人が応援した。
■弁財天奉迎大祭(昭和34年12月7日撮影)
江戸時代に始まる「淡路廻り弁天」は、島内最大の祭りである。 昭和34年の奉迎は、数えて5回目であった。小学校の運動場には、近郷近在から壇尻50台が集結するなど、町を挙げての奉迎行事で大いに賑わった。
■奉迎大祭の帰路(昭和34年12月7日撮影)
奉迎大祭には、地区外からも33台(遠くは市・榎列から)の壇尻の参加があり、無事行事を終え、夕闇迫る中、帰路行列をなし、淡路交通線路敷と並走する国道を中山峠付近に差しかかった。お疲れ様!お気を付けて!
■大交通渋滞(昭和39年頃撮影)
昭和38年の休暇村開村や国道の開通等を受け、モータリゼーションの波が一気に押し寄せた。 当時、地区を貫通する道路は上町だけであったので、日常的に大渋滞が発生した(写真は波止の浜)。昭和44年の南淡路有料道路(バイパス)の開通によって、解消することになる。
■盆踊り審査会場(昭和42年8月16日撮影)
商工会・観光協会などが中心となって、伝統の盆踊り(阿波踊り)が賑やかに行われていた。この当時は、町内会と職場の連が主体で、町中を練り歩いていた。写真は、築地阿淡汽船前での審査会場の様子。
■初地蔵(昭和43年1月7日撮影)
福良には、十数ヵ所の地蔵祠堂がある。写真は、福良小学校プール北脇の原田地蔵で、近くの人々による護摩焚きが終わったところ。かつては、町のあちこちでこのようなのどかな光景が見られたものであった。
■南辺寺山の凧揚げ(昭和46年1月14日撮影)
かつて、子どもの正月の遊びは、凧揚げ・かるた・双六が定番であった。毎一月、南淡町子供会などが凧揚げ大会を催し、南辺寺山頂でも元気な歓声がこだましていた。なお、本写真の背景には、今は懐かしい福良港の埋立て前の姿がくっきり。
■阿淡の浜(昭和50年代前半撮影)
今も昔も、福良の観光の目玉は、何と言っても観潮。OKマークの阿淡の浜は観光客等で溢れかえり、黒山の人だかりであった。この頃の最大旅客数は、昭和42年度で何と約62万人を誇った。(撫養への定期航路分を含む。)
■蛇ノ鰭の潮干狩り(昭和56年3月撮影)
春は楽しみの潮干狩り! 3月、大潮の日曜日ともなれば、洲崎や蛇ノ鰭へ家族揃ってアサリ掘り、肌寒さに加え、冷たい潮と人口密集に苦闘しながらも、楽しい時間を過ごしたものであった。
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