福良学教室現地巡り(郷土史など)の記録

日時/平成25年10月5日(土)9時15分頃〜
集合/9時 ダントーHD福良工場駐車場

1.趣旨・目的
  福良の古絵図(「味地草(安政4年小西友直他刊)」付図)を片手に、自然豊かな近畿自然歩道のうち仁尾から笹山までをみんなで楽しく歩き、「福良の誇る自然美」と「福良の姿の今昔」に触れ、「先人たちの苦難の営みの跡」を辿る。

2.行程
  ≪ダントーHD福良工場駐車場を9時15分頃に出発、15時頃同地に帰着、解散予定、 全行程歩行距離 約3.3q≫
  凡例 「訪問箇所名」・ ⇒ 徒歩 ・ →→ バス ・ 【目安の時刻】
 「ダントーHD福良工場〔練兵場跡〕(鳰)」 ⇒ 《「仁尾荘」にてトイレ》 ⇒ 「鳰谷川軍橋(仁尾谷川)」 ⇒ 「鳴門要塞司令部跡(鳰)」 ⇒ 「うずしお橋(鳰)」 ⇒ 「南淡路RH受水施設(鳰) ⇒ 「淡路広域水道企業団西谷加圧所(鳰)」 ⇒ 「南淡路RH汚水処理場(鳰)」 ⇒ 「南淡路RH高度水処理施設(鳰)」 ⇒ 「南淡路RH上水中継槽(鳰)」 ⇒「南淡路RH井戸ポンプ室(鳰)」 ⇒ 「水道企業団西谷配水池(坂本)」 ⇒ 「軍道標柱(坂本)」 ⇒ 「福良演習砲台跡(真奥)」《遠望》 ⇒ 【10:30】「刈藻海岸(刈藻海岸区域)」 ⇒ 「護岸?(刈藻海岸区域内)」 ⇒ 「離岸堤(刈藻海岸区域内)」《眺望》 ⇒ 「大園島(大園)」《眺望》 ⇒ 「禪海庵跡(刈藻中ノ谷)」 ⇒ ≪【11:15〜12:00】「サンビーチかるも(刈藻中ノ谷)」にて昼食・トイレ休憩≫ ⇒ 「護岸?(刈藻海岸区域内)」 ⇒ 「伊勢崎水路の樋門(大刈藻)」 ⇒ 「うずの丘大鳴門橋記念館〔柿ケ原堡塁跡〕(大刈藻)」《遠望》 ⇒ 鳥取降り口〔穴口〕 ⇒ 「鳥取海岸(鳥取海岸区域内)」 ⇒ 「石積護岸(鳥取海岸区域内)」≪【12:50〜13:00】トイレ休憩≫ ⇒ 「深田・長堀(鳥取)」 ⇒ 「石造樋門(鳥取)」 ⇒ 「突堤(軍波止)〔鳥取繋船場跡〕(鳥取海岸区域内)」 ⇒ 「鳥取弾薬本庫跡(鳥取)」 ⇒ 「行者ケ嶽砲台跡〔行者堂跡〕(鳥取)」 ⇒ 「笹山駐車場〔筏降ろし・馬降ろし、笹山砲台跡〕(鳥取)」【14:30】 →→→ 「ダントーHD福良工場(鳰)」≪【15:00】解 散≫




3.行程箇所別概要の紹介

○ ダントーH福良工場〔鳴門要塞練兵場跡〕(鳰)
   

  地元唯一の一部上場企業であり、古くは「a平焼」の流れを汲むタイルメーカーで、福良工場は鳴門要塞練兵場跡に建てられた。(大正7年) 福良小学校の運動唱歌の三番「さては 工場に立ち上がる いわきの煙 空をつき」の一節は、往時の本工場の様子を歌ったものである。

 





○ 鳰谷川軍橋(仁尾谷川)


 

  地蔵堂脇の軍道(現在市道)には、仁尾谷川に架かる堅固な洋式の石橋がある。 両岸橋台護岸は平石積、桁は石組アーチ、地覆と親柱は御影石が使われ、いかにも陸軍の仕事らしい。







○ 鳴門要塞司令部跡(鳰)

   

  「由良要塞近傍地形図」によると、鳴門要塞司令部は明治33年に開設され、仁尾荘北東側の橋を正門として北西方向にかけて敷地が広がり、建物も約20棟があったとされている。







○ うずしお橋(鳰)


   

  昭和44年4月1日のうずしおライン(現主要地方道「阿万福良湊線」)の開通と共に供用開始された。 橋長は122.795mもあり、鳰の谷を跨ぐ市内最長の陸上道路橋である。







○ 南淡路ロイヤルホテル受水施設(鳰)


   

  淡路広域水道企業団からの供給水を受ける施設(昭和63年設置、繁忙時のみ使用)で、ホテルにポンプ送水(時間当たり10立方メートル)している。 水槽はFRP製。







○ 淡路広域水道企業団西谷加圧所(鳰)


   

  峠の「水道企業団西谷配水池(容量100立方メートル)」に送水(管径100mm)するための加圧送水施設(昭和47年築)で、20立方メートルの受水槽とポンプ2台(交互運転)を備えている。







○ 南淡路ロイヤルホテル汚水処理場(鳰)


   

  ホテル館内から発生する汚水処理施設(昭和63年築)で、繁忙時には日量350立方メートル、閑散時で120立方メートル程度の処理となっており、公称規格は5,100人槽となっている。







○ 南淡路ロイヤルホテル高度水処理施設(鳰)


  

  井戸水を飲料水に高度処理する施設(平成15年設置)で、日量110立方メートルの飲料水を作る能力がある。

 





○ 南淡路ロイヤルホテル上水中継槽(鳰)


 

  淡路広域水道企業団からの供給水を受ける施設(昭和63年設置)で、270立方メートル容量の水槽が設置されている。 なお、270立方メートルは700名宿泊時の必要量とのことです。







○ 南淡路ロイヤルホテル井戸ポンプ室(鳰)


  

  地下250mのボーリング井戸から日量180立方メートルを汲み上げる施設である。(このうちホテル用の飲料水となるのは110立方メートル)

 





○ 淡路広域水道企業団西谷配水池(坂本)


  

  刈藻、「うずの丘大鳴門橋記念館」、鳥取及び「道の駅うずしお」に日量70立方メートルを配水するための施設(昭和47年築)で、配水槽はRC造りで容量100立方メートルである。 なお、長見山浄水場からの水を受けている。







○ 軍道標柱(坂本)


  

  記録によれば、明治20年代から明治30年代に鳴門要塞施設群の建設が始まったとあり、本軍道もその頃から着手されたものと推定される。 現在、標柱はこの1体のみ確認できる。

 





○ 福良演習砲台跡(真奥)


  

  記録によれば、現在の南淡路ロイヤルホテルから南側尾根上に砲兵隊の演習砲台があったとされている。 施設としては、厠2箇所、倉庫2箇所、砲床7個所、六角の観測所2箇所、土塁などが明治32年から34年にかけて建設された。

 





○ 刈藻海岸(刈藻海岸区域)


  

  国土保全のため、国交省河川局所管、県管理の海岸保全区域(含む水域)となっており、浸食・高波・高潮などの対策と同時に、瀬戸内海国立公園の自然保護の対策がとられている。







○ 護岸(2) (刈藻海岸区域内)


  

  高潮と海岸浸食対策のため、コンクリート擁壁護岸が整備されている。 護岸延長は596.0m







○ 離岸堤(刈藻海岸区域内)


  

  海岸浸食対策のため、消波ブロック堤が整備されている。 なお、養浜にも効果的となっている。 離岸堤延長は、130.0m×3基で390.0m 







○ 大園島(大園)


  

  一の谷の合戦で敗れた平家が、安徳天皇を奉じて屋島に落ちて行くとき、潮待ちのため、天皇がこの島に上陸して休まれたので、「王園(オ―ゾ)」と呼ばれるようになったと言われている。







○ 禪海庵跡〔福良小学校刈藻分校〕(刈藻中ノ谷)


  

  「味地草」などの記録によれば、この地に、「禪海庵」があり、薬師堂、大師堂、地蔵堂もあったという。 古老の話によれば、戦前、小学校の分校としても使用されたそうである。 現在、薬師堂と石地蔵、天照大神、戎さんなどが祀られ、神輿巡行時の御旅所ともなっている。







○ 護岸(1)刈藻海岸区域内)


  

  高波対策のため、波返しコンクリート擁壁(既設石積堤と上部パラペットコンクリート前面に補強)護岸が整備されている。 護岸延長は200.0m







○ 伊勢崎水路の樋門(大刈藻)


  

  海浜低地帯の刈藻では、古より、稲作における高潮・高波などの潮害との永い苦闘の歴史があり、水路流末部では潮止めの施設が幾度となく繰り返し更新整備がなされてきた。







○ うずの丘大鳴門橋記念館〔柿ケ原堡塁跡〕(大刈藻)


  

  記録によれば、現在のうずの丘大鳴門橋記念館敷には明治32年から34年にかけて築造された堡塁があった。 備砲は28センチ榴弾砲6門(砲座3)、9センチカノン砲4門(砲座2)、15センチ臼砲4門(砲座2)であった。

 





○ 鳥取海岸(鳥取海岸区域内)


  

  国土保全のため、国交省河川局所管、県管理の海岸保全区域(含む水域)となっており、浸食・高波・高潮などの対策と同時に、瀬戸内海国立公園の自然保護の対策がとられている。







○ 石積護岸(鳥取海岸区域内)


  

  高潮対策のため、前面腹付けコンクリート等で補強された石積護岸が整備されている。 護岸延長は162.7m







○ 深田・長堀(鳥取)


  

  古老の話によれば、古より昭和南海地震まで、「深田(フケダ)」と呼ばれた約1町の広大な田地があったが、次第に水没が進み、昭和36年の第2室戸台風によって修復不能となり、現状の池沼となった。 また、池尻側に長い堤で仕切られた折り返し帯状の水位調整のための「長堀」が築かれており、永い海水との闘いの跡が見られる。






  
○ 石造樋門(鳥取)


    

  「長堀」の下流水路内にも、地域の人たちが必死に築き守ってきた堅固な御影石の潮止樋門が残っており、今に往時のなごりを残している。







○ 突堤(軍波止)〔鳥取繋船場跡〕(鳥取海岸区域内)


  

  記録によれば、明治29年に、他の要塞施設の築造に先立って、築造着手・竣工したとあり、重量物荷揚げのため、突堤が海に傾斜した斜路構造となっている。 現在も、県管理の海岸施設として現存している。







○ 鳥取弾薬本庫跡(鳥取)



  記録によれば、明治31年起工、34年竣工の火薬本庫2棟、弾薬本庫2棟、火具庫1棟があった。 現在もそれぞれ土塁で仕切られた4つの空間が残っている。 







○ 行者ケ嶽砲台跡〔行者堂跡〕(鳥取)



  

  記録によれば、明治30年起工、33年竣工の砲台があった。 備砲は、26口径24センチカノン砲6門(砲座6)であった。 また、東方70mの場所には付属弾薬庫が煉瓦造りの残骸が残っている。 なお、要塞築城のため、この地にあった行者堂(石造不動尊と屋形造りの石廟もあった。)は鶴島に移転し、今に名だけが残っている。






○ 笹山駐車場〔筏降ろし・馬降ろし、笹山砲台跡〕(鳥取)



  

  記録によれば、明治30年起工、33年竣工の砲台があった。 備砲は、28センチ榴弾砲6門(砲座3)であった。 現在は、駐車場と大鳴門橋展望台が建設され、遺構は消滅してしまった。 なお、西側直下のなだらかな海岸は、南北朝時代に細川師氏(淡路養宜館の祖となり、以来7代の間、淡路国守護職となる。)軍の人馬の上陸地点とされている。





4.携行古絵図等
(1)味地草(安政4年小西友直他刊)付図 5点

弦島古城蹟之図
海褝莽
刈藻島
行者嶽頂上
自行者嶽遠望之図


(2)福良字限大図(集合図) 1点



ページTOPへ






inserted by FC2 system