福良学教室現地巡り(郷土史など)の記録


日時/平成25年5月4日(土祝)9時15分頃〜
集合/9時 福良小学校屋内運動場付近


1.趣旨・目的
  福良の古絵図(「味地草(安政4年小西友直他刊)」付図)を片手に、住み慣れた「郷土福良」をロマンチックに訪ね歩き、古き良き「郷土福良」を再発見!


2.行程   (予定)≪福良小学校を9時15分頃に出発、14時30分頃同地に帰着、解散≫
  凡例「  ⇒  徒歩」 「 →→→ バス」

 「福良小学校(原田)」 ⇒ 「谷川の井戸(谷川町原田)」 ⇒「円通庵(谷川町柳地蔵)」 ⇒ 「徳島藩福良浦御屋敷の坂(東十軒家)」 ⇒ 組合ホール(東十軒家波止の浜)≪トイレ休憩≫ ⇒ 「極楽橋(十軒家殿川)」 ⇒ 「お屋敷の井戸(東十軒家釈迦堂)」 ⇒ 「釈迦堂(東十軒家桜地蔵)」 ⇒ 十軒家檀尻小屋 ⇒ 「御船屋跡(西十軒家)」 ⇒ 「福良サンマ跡(西十軒家船ノ上) ⇒ 「旧福良中学校跡(浜町白木)」 ⇒  ⇒ 「ダントーHD福良工場(仁尾)」 ⇒ 「仁尾地蔵堂(仁尾荘)」≪トイレ休憩≫ ⇒ 「鳰谷川軍橋(仁尾仁尾谷川)」 ⇒ 「忠魂碑(仁尾真奥)」 ⇒ 「休暇村南淡路(仁尾鶴島、有ノ木)」≪昼食、トイレ休憩、見学等≫ →→→ 「福良小学校」≪解 散≫




3.行程箇所別概要の紹介

◎「福良小学校(原田)」

  

  昭和9年(1934年)に、旧校地(現福良財産区二丁目駐車場敷)から移転し、以来、地域の小学校として利用されている。 建設中の昭和7年に、太い柱根が発掘され、第15代応神天皇の「淡路御原離宮跡」とも推定されている。 なお、現校舎は昭和51年に改築された。




◎「谷川の井戸(谷川町原田)」

  

  柳川の川筋は水勢があり、40年程前までは付近住民の貴重な水洗い場として利用されていた。 
水源の乏しい福良では、貴重な水源であり、今も当時のまま残されている。




◎「円通庵(谷川町柳地蔵)」

  

  柳の井戸の西脇にあり、慈眼寺十四庵の一つである。 20年程前まで毎夏「地蔵盆」で賑わっていた。 なお、北側上方の山は、「(円通庵の)庵の山」と呼ばれている。



◎「徳島藩福良浦御屋敷の坂(東十軒家)」

  

  福良浦を治める責任者として、二百石取りの有力な徳島藩士が「御番手」として交代赴任していたが、その御用邸が、延宝年間(1680年頃)に、波止の浜の高台に建てられた。 今も、階段状の坂道や石積に往時の名残りを留めている。




◎「極楽橋(十軒家殿川)」

  

  この橋を西側に渡った山側に阿弥陀念仏堂と十王堂があり、そこで葬式をし、野辺の供養の後、
西隣の埋葬地で土葬していたので、この橋を「極楽橋」と言うようになった。


 

◎「お屋敷の井戸(東十軒家釈迦堂)」

  

  「徳島藩福良浦御屋敷」の炊事用水井戸として使われていたと言われている。 40年程前まで、付近住民の貴重な水洗い場であった。




◎「釈迦堂(東十軒家桜地蔵)」

  

  現在は、大きな桜の木があることから「桜(木)地蔵」と呼ばれ、周辺住民から親しまれている。 この谷筋の字名が「釈迦堂」となっており、正式な堂名で、このお堂にはお釈迦さんが祀られていたものと思われる。  




◎「御船屋跡(西十軒家)」

  

  徳島藩福良浦御屋敷付の十人衆による「洲崎御番所」への御用船の船着場であったと思われる。 なお、十人衆は、五石三人扶持の鉄砲組の武士であった。 




◎「福良サンマ跡(西十軒家船ノ上)」

 

  福良では、以前は土葬されており、この地がサンマであった。 その後、昭和40年代頃まで火葬場としても使用されていた。 「さくら苑」の建設時に周辺整備がなされたが、何故か未だに利用は少ない。
 



◎「福良中学校跡(浜町白木)」

  (1) 白木は新羅(しらぎ)に通じ、古代に朝鮮からの渡来人が住んだ所とされている。
  (2) 以前、「陸軍鳴門要塞築城部」敷として収用されていたが、昭和22年に「福良町立福良中学校」に転用開校(完了は昭和31年)し、昭和58年の南淡中学校への統合に伴い、廃校となった。




◎「ダントーHD福良工場」





  淡路土着の唯一一部上場企業であり、古くは「a平焼」などの流れを汲むタイル工場であり、大正7年から操業している。 福良小学校の運動唱歌の三番「さては 工場に立ち上る いわきの煙 空をつき」の一節は、当時のダントーを歌ったものである。




◎「仁尾地蔵堂(仁尾荘)」

  

  毎年8月には、仁尾自治会あげての地蔵盆で賑わっている。 観音さん、お大師さんも祀られており、慈眼寺十四庵の一つである。




◎「鳰谷川軍橋(仁尾仁尾谷川)」

  

  地蔵堂脇の軍道(現在市道)には、仁尾谷川に架かる堅固な洋式の石橋である。 両岸橋台護岸は平石積、桁はアーチ式の石組、地覆は御影石が使われ、いかにも陸軍省の仕事らしい。




◎「忠魂碑(仁尾真奥)」

  

  休暇村施設内道路脇の高台に、東向きに碑が建ち、昭和3年に日清・日露戦の英霊を顕彰慰霊するために建てられたものである。




◎「休暇村南淡路(仁尾鶴島、有ノ木)」

 

  (1) 古代の「有の木古墳」があり、 海人族の漁労採取生活ぶりが窺える。
  (2) 源平時代には、源氏の加茂冠者源義嗣と淡路冠者源義久が断崖絶壁の地形を利用して、
「弦島城」を築城したと伝えられ、能登守平教経に攻められた時、「射切石」の逸話を残している。




◎ 行者堂

 

  (3) 明治31年に、鳴門要塞築城の必要から、行者嶽の「行者堂」を鶴島の一角に移転した。
  (本尊は慈眼寺へ移して祀られている。)  
  (4) 昭和38年に、「国民休暇村(当時厚生省所管)」が建てられ、絶好の景勝地の観光施設として
賑わっている。




◎ 歌碑

 (5) 駐車場東南端部に二つの「歌碑」が建てられている。

 「福良湾 波きらめける 逆光に 煙島くろく見ゆ 中山峠」
  飛松 實(明治40年福良東十軒家出身の歌人)

 「月も出よ むかし平家の 落ちびとの 浪まくらあと 福良の湾に」 
  中村憲吉(明治22年広島県出身のアララギ派の文人)


  (6) 平成8年、鶴島南崖面に希少な「漣痕」が発見された。 
  漣痕は太古の波の化石(約7,000年前)であり、県内では最古で、全国屈指の規模である。



 4.携行古絵図(「味地草(安政4年小西友直他刊)」付図)


 
  福良市坊方図(味地草挿絵図)

  牛王殿祠(十軒家)(味地草挿絵図)

  洲崎及煙島(味地草挿絵図)

  弦島古城蹟之図(味地草挿絵図




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